市民と弁護士が行っている憲法学習会「terra cafe kenpou」

昨夜のterra cafe kenpouでは、被爆者の田中敏裕さん、被爆2世の國川利子さんから被爆の実相そして平和への思いを語っていただきました。

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【田中さんのお話】
5歳の時。空襲警報が解除になり、私は家の中にいた。母は裏木戸から庭に出た。父は外に出て、私が父を追って玄関のそばまで行った時、飛行機の爆音が聞こえた。一瞬立ち止まったところ、玄関の戸が真っ白に光り、綺麗かぁと思った瞬間、天井が崩れ落ち下敷きになった。痛みは感じなかった。外にいた父が助けに来てくれた、瓦や梁などを除いて助けてくれた。奇跡的に無傷だった。父は母も助け出した。広島駅の方を見ると煙が出ており、父は火を消しに行った。それが父を見た最後になった。静かだった。母は背中から腰にかけて光を受けていた。母は私を背負って、比治山に逃げることになったが「水をくれ、水をくれ」と水を求めてくる人がいっぱい。防火用水には多くの人が首を突っ込んで死んでいた。途中、飛行機が飛んできたので橋の下に逃げた。ふと気づくと私の足を釘が突き抜けていた。比治山の洞窟に逃げたところ、悪臭や呻き声。母が抱きしめてくれていた。差し入れにおむすびをもらった。落ち着いてから洞窟を出て街を見たところ、空は赤く染まり、広島中が真っ赤に燃えていた。黒い雨が降ってきて、大人から雨に当たるなと言われた。数日後、家に帰ることができたが、家は跡形もなく、ガラスはドロドロに溶けていた。父を探して広島中を歩き回った。軍の兵舎に食べ物をもらいに行った。軍では肉飯と氷砂糖をもらった。父を探して船に乗って島にも行った。薬も何もないので、母はレンコン畑から捕まえてきたヒルに背中の血を吸わせた。12月末まで父を探し続けた。8/10に父が罹災証明を受けていたことが分かった。食べ物がないので軍の倉庫から缶詰を取ってきていたが、私は追いかけられてしまい逃げた。母は遺骨のようなものを持ってきたがそれが父のものかは分からない。昭和20年年末に父の故郷である博多に着いた。その時大雪だった。父の本家で厄介になった。福岡も空襲にあっており、人の世話ができるような状態ではなく、母は闇買いを始めた。母は私を連れて小郡などで下駄などを仕入れて風呂敷に包んで背負って博多に持ってきて売っていた。そういう生活を3年くらい続けて、母は千代町で食材を売る商売を始めた。母は夜は博打場に行って食べ物を売っていた。私は体が弱く、母は自分が食べずに鶏の肝を買ってきて甘く煮て食べさせてくれた。寒い時には足に挟んで温めてくれた。兄が戦地から戻り、結婚し子どもをもうけた。4年後、兄は盲腸から腹膜炎を患い25歳で亡くなった。昭和26年2月、母は食べた物を吐き出し倒れた。母は衰弱し、膿まみれになり、市立第一病院に入院したが2日目に亡くなった。母と兄を亡くし、生活が一変した。叔母の姉の買い出しの手伝いや、子守、按摩、米つきや風呂の水汲みなど小さい体では大変な作業をした。母を亡くして悲しい時なのに誰にも言えなかった。腹が減って戸棚のものを盗み食いした。栄養不足から鳥目になった。九大セツルメントで肝油をもらったりして助けられた。東光中学の夜間部に通学した。朝から午後6時頃まではボロ買い(鉄くずや空き瓶などを拾い集めて売る)やタバコの吸い殻を集めて売らされたりした。こういう生活を1年ほど続けたところ、夜間部が閉鎖され昼間の通学に変わった。中学生と言っても10歳以上も歳が離れた大人たちも勉強していた。昼間部に移り勉強についていくのが大変だった。遠足や運動会、修学旅行にも行っていない。中学2年の時、足を骨折し入院した。毎晩友達が日替わりで泊まり込んで看病してくれた。食べて寝られて、明るいところで暮らせて入院は天国だった。これまでボロ買いなどをさせていた大人たちは見舞いにも来なかった。このままボロ買いを続けてはいけないと思った。入院していた時の縁で養鶏場で働くことになった。入院したことで補助が打ち切られた。兄の服を質屋に持って行った。中学2年で養鶏場で働くことになり、朝、養鶏場の清掃をし、昼は中洲や天神で残飯を集めまわって潰して鶏の餌にした。こういう生活をしていたところ、脚が痛み出すようになる。疲れたら脚が痛むというのが数十年続いた。歯茎からの出血、胸やけ、黄疸など。眼球は勝手に動き出し、ものを見ることができない。首筋に針を何十本も刺す痛み、目をつむると雲のようなものが現れる。自分の体はどうなってしまうのかと恐ろしくてならなかった。誰にも打ち明けられなかった。カルシウムを取らなきゃと思い、卵の殻を割って食べたりしていた。養鶏場のツテで京都の表具屋で働くことになった。しかし、保証人になってくれる人がおらず、探していたところ戸籍をたどって生みの母親がいることが分かった。しかし、生みの母親は別に家庭を持っていたので、その母親とは5日しか一緒にいれなかった。17歳の時、原水協の招待で広島に行った。結婚はできたが、生まれてくる子どもに異常がないか妻にも打ちあけられず悩んだ。数年前、手記を書いて、妻や子は私が原爆にあったことを知った。被爆したというと差別や偏見があり、特に結婚については大きな障害となり、多くの被爆者が被爆の事実を打ちあけられずひとり悩んでいた。原爆の写真や映像があると今でも父が写っていないか探してしまう。みんなにはこんな思いをして欲しくない。原爆や水爆、原発がなくなるよう願っている。今でも多くの被爆者が誰にも言えず悩み苦しんでいることを想像して欲しい。

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【國川さんのお話】
母が長崎で被爆した2世。小学校教師として母の経験を生徒に伝えてきた。
この写真は何をしているところか分かる?

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これは亡くなった妹の火葬を待っているところ。なんで10歳くらいの子が妹の火葬の順番を待っているんだろう。なんでお父さんもお母さんもいないのだろう。
たった1個の爆弾で長崎の街はこんなになった。B29は5tの爆弾を積むことができるけど原爆1個で爆弾満載したB29の4400機分の破壊力がある。
500m上空に火球ができて地面の温度は3000〜4000度になった。そこにいた人は一瞬にして蒸発した。半径2km内は全壊全焼した。半径3kmでも秒速30mの爆風に見舞われた。福岡市に置き換えると。

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目に見えない放射線が細胞を破壊した。細胞が破壊され修復能力が奪われた。その結果、生きていながら体が腐ってしまった。直接、原爆に遭わなくても、家族を探して後に広島や長崎に入って被爆した人も多い。
母の父は町内会長をしており空襲警報解除後、町内の様子を見に行った。祖母は臨月だった。2人の妹は女学生で工場動員。家には幼い弟と妹。街が静かなので窓から外を見た瞬間、光り、その途端、爆風に見舞われた。長崎の街が燃えているのが見え、顔を真っ黒にしたおじさんが近づいてきて、惨状を話していたが、背中一面にガラスが刺さり、その場で亡くなった。首のない子どもをおぶったお母さんや、次から次に人が来るが、話している間に死んでしまう。妹は船の中で被爆、光った瞬間に椅子の下に潜り込んだ。椅子から出ると周りの人たちはみんな死んでいた。妹は翌日爆心地の方に向かって歩き、橋を渡って帰ってきた。その後、発疹や下痢に見舞われた。もうひとりの工場に行っていた妹を探して母は4日間、長崎市内の43か所の救護所を探し回った。顔がただれ兵隊に連れられていたところまでは友達が見ていたが、その後の消息は分からない。母はその後、髪が抜け高熱に見舞われた。火傷からウジが湧くけど、薬もなく箸で掴んで取ってやることしかできなかった。

明日(8/11)は、博多市民センター視聴覚室で「原爆と人間展」です。ぜひご参加ください。

日時 8月11日(木・祝)13:15
場所 博多市民センター視聴覚室
テーマ 原爆と人間展-手渡したい平和へのおもい
講師 草合護さん(被爆者)、宮下彩さん(安保関連法に反対するママの会@福岡)」

terra cafe kenpouの今後の予定をおしらせします。
特に記載がない限り火曜日19時〜光円寺門徒会館(天神3丁目15-12)です。
予定は入れ替わるかもしれません。下記サイトでスケジュールをご確認ください。
http://ohashilo.jp/lawyer/goto/active/terra-cafe-kenpou/
なお急遽会場変更になることもございます。変更の場合は下記サイトでご案内します。
http://ohashilo.jp/blog/

8月11日(祝)13:15 「原爆と人間展」(博多市民センター)
8月16日 お休み
8月23日 お休み
8月30日 調整中