西日本新聞社の新聞記事および同社記者による出版によって、女性のプライバシーが侵害され心身に深い傷を負った事案について、2024年(令和6年)6月6日、福岡地方裁判所に民事訴訟を提起しました。

訴訟の概要

第1 当事者

   1 原告

   福岡市在住の女性

 2 被告

  ・西日本新聞社

  ・同社記者A

第2 請求の趣旨

1 被告らは、原告に対し、連帯して、150万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払い済みまで年3%の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決並びに第1項についての仮執行の宣言を求める。

第3 事案の概要

1 訴外Bとの関係

原告は、1998年(平成10年)頃、革命家を自称する政治活動家であるBと交際していた。

1999年(平成11年)3月8日、Bは原告に暴行を加え、外傷性鼓膜穿孔等の傷害を負わせた(傷害事件)。

同年7月26日頃、Bは、原告宅に投石して窓ガラスを割った(器物損壊事件)。

原告は、Bを被告として民事訴訟を提起し、福岡地裁は、Bに100万円の損害賠償責任を認めた。

傷害事件について、2001年(平成13年)8月27日、福岡地裁はBに、懲役10月の実刑判決を下した。Bは、控訴・上告したが、いずれも棄却され、Bは服役した。

その後も、Bは、出版物やインターネット上で、原告を非難する言動を繰り返した。

2 西日本新聞の連載

2021年(令和3年)、西日本新聞朝刊において、A記者の取材にかかる連載が始まった。同年3月2日朝刊で連載第4回を掲載した。

この記事では、上記傷害事件が掲載され、「B君が一方的に悪いとは思わなかった」とのBの知人のコメントが掲載された。さらに、「〈私は現在、のちに「マイ・マジェスティ事件」として知られるところとなるであろう、日本国憲法下最大の思想弾圧事件の渦中にあり、福岡刑務所の特別な独房の中でこれを書き始めている〉」という訴外Bが傷害事件で服役中に書いたものをそのまま引用した。

原告は、連載時には上記記事のことを知らなかったが、同年3月24日、A記者がフェイスブックのメッセージを利用して取材依頼をしてきたことで、連載記事の存在を知った。原告は、自分の全く知らないところで、被害を受けた傷害事件が記事になって新聞に掲載されていたこと、その内容がBを擁護し、Bの加害を正当化する内容であったことにショックを受けた。

3 原告と被告らとの約束

(1) A記者の約束

原告は、Bに心酔しているA記者から取材を受けることに強い不安を感じたが、同年3月31日、下記の条件が守られることを前提として取材を受ける旨回答した。

① ICレコーダーでの録音やメモを取ることはせず、その間見聞きしたことは決して他言しない。

②  原告が取材を受けてもよいと判断した時点で、録音やメモ取りを行う。

③ 本の中で原告の事件を取り上げる際には、細心の注意を払いつつ中立であるよう努める。

④ 編集者と相談の上になるが、原告が登場する箇所に関してはゲラ、または原稿を見せ、発言内容が異なる箇所や書かれると差しさわりのある事柄については修正を行う。

A記者は、原告に上記条件の①〜③について約束し、④については「編集者への確認が必要ですが、筆者の私の意向ですので問題なくお見せできると思います。」と回答した。

そこで、原告は、同年4月3日、被告西日本新聞社内の会議室において、A記者と面会した。途中からA記者は原告のプライバシーに関わることを質問し始め、原告はA記者からなし崩し的に取材を受けることとなった。

(2) 被告西日本新聞社の約束

原告は、上記取材後、同年5月9日、被告西日本新聞社に対して、下記の要望を伝えた。

① A記者に対しては、事件加害者の一方的な主張のみを書くのではなく、被害者側にも取材をした上で、事実を正確に書くことを求めます。

② 事件に関する記述については、取材対象者に原稿とゲラのチェックをさせることを求めます。

③ 貴社に対しては、上記①、②についてA記者と情報共有し、A記者が適切に遂行できますよう、指導とサポートを求めます。

④ A記者の記事からもわかるよう、加害者は事件について反省も更生もしていません。私や私の周りの人が取材に応じたことが加害者にわかれば、何らかの身体的、精神的、あるいは名誉に関わる被害を受ける可能性があります。貴社は記事を掲載した責任として、A記者と情報共有し、取材対象者の安全確保に最大限努めるよう求めます。

⑤ 今後、犯罪被害者や性暴力サバイバーなどの名誉や人権に配慮した取材が行えるよう、社として記者の皆様にしっかりと指導や教育をしていただくよう求めます。

原告の上記要請に対して、被告西日本新聞社は、「1〜5のご要望について、私どもも真摯に受け止め、最善を尽くします。」と約束した。

4 被告らの義務違反

2023年(令和3年)1月25日にA記者執筆にかかるBに関する書籍が刊行された。

その間、原告に対するゲラの開示や確認などは一切なされなかった。

5 原告が被った損害

上記書籍には、西日本新聞連載記事にはなかった原告のプライバシーにかかわる内容が掲載されていた。

書籍には原告の氏名自体は掲載されていないものの、インターネット上で検索することで原告の実名を知ることは容易である。

原告は、不眠や動悸に悩まされ、心療内科において現在も治療を受けている。

 

【原告提訴声明】

私はこの度、西日本新聞社とA記者を提訴することとしました。西日本新聞に掲載されたA記者の記事、及びその記事をもとに刊行された本によって、私の名誉が傷つけられたためです。

A記者が記事や本で取り上げている、Bの私に対するストーカー行為が始まったのは1999年2月頃でした。執拗なつきまといだけでなく、めちゃくちゃに殴りつけられて重傷を負わされたこともあります。さらにBは私の実名と顔写真の入ったビラやミニコミ誌を作成し、プライバシーの暴露や誹謗中傷を行いました。

そうしたことをやめさせるため、私は警察に被害届を出し、さらには民事訴訟を起こしました。2001年、Bには懲役10ヶ月(執行猶予なし)の実刑判決と、民事でも私への100万円の賠償命令が下されています。私が受けた被害は、それほど深刻で重大なものでした。

しかし、Bが収監されたことで、私がすぐに安心して暮らせるようになったわけではありません。いずれは出所してくるのですから、その間に逃げなければなりませんでした。共通の知り合いがいるとそこから居場所を突き止められるかも知れないので、私はそれまでの人間関係の大半を断ち切らざるを得ませんでした。不安と緊張を強いられる生活が続いていたので、心身の不調にも苦しみました。

それでも5年、10年と経つ内に、私は徐々に平穏な暮らしを取り戻していきました。定職に就き、信頼できる友人や仲間も少しずつ増えていきました。健康を回復し、趣味を楽しみ、時には社会運動にも参加をして、裕福ではないけれど充実した毎日を送っていました。かつてストーカーにより破壊された人生を、私は私自身の手で取り戻したのです。

それを突き崩したのが、2021年3月にA記者から送られてきたfacebookメッセージでした。私は自分の犯罪被害体験を、この20年誰にも語らず生きてきました。それなのに突然、一面識もない人物から私の過去に土足で踏み込むようなメッセージが送られてきたのです。その時の私の恐怖が想像できるでしょうか?しかも、全く知らない間に自分のことが新聞記事にされており、それは加害者であるBを擁護する内容でした。これは私に対する二次加害です。

記事の内容がこのようなものになったのは、性暴力も含む犯罪被害に対する記者の無知、無理解が原因であると私は考えます。西日本新聞社がまっとうな社員教育を行っていれば、こんなことにはならなかったでしょう。また、新聞記事は記者一人が書くものではなく、部長やデスクのチェックが入るものです。被害を受けた当事者の話は聞きもせず、加害者側の言い分のみを記事にすることを、誰も問題だと思わなかったのでしょうか。

私は西日本新聞社に抗議し、書籍化にあたっては、A記者の方から私に提案してきた「ゲラを見せる」などの約束を守るよう要請しました。西日本新聞社は「真摯に受け止め、最善を尽くします」と返答したにもかかわらず、一度も履行されないままに本は刊行されました。その結果、私のプライバシーが侵害されることとなりました。

ここまで読んで、疑問を感じた方もいるかも知れません。そんなにショックであったのなら、なぜA記者の取材に応じようとしたのか?過去の辛い体験のことなど、話したくないと思うのが普通では?と。

私がA記者の取材に応じようと思った理由は、二つあります。一つは、私がここで取材に応じなければ加害者Bにとって都合のいいことのみが本に書かれるのではないかと、強く懸念したこと。もう一つは、私には子どもの頃から慣れ親しんだ新聞というメディアに対する信頼があったからです。新聞記者であるのなら、客観的な事実を公正に書いてくれるのではないかと思ったからです。しかし、私のそのような信頼は根底から裏切られました。

これまで私が相談した人の中には、「新聞記者なんて、そんなものだから」という人もいました。目先のネタを追っているだけで、彼らに誠実さや職業倫理など期待する方が間違っている、という意味です。今となっては、私もその人の言っていたことが正しかったと思っています。

ですが、この社会には「そんなものだから」で見過ごされてきた暴力や人権侵害が、無数にあるではないですか。

私はそれを見過ごしたくないのです。

2024年6月6日

原告