「中国帰国者を励ます集い」に参加しました。


「私は中国では小学校の教師をしていました。中国残留孤児の母が日本に帰国し、それから1年も経たずに父は亡くなり、母は腎臓がんで入院しました。私は、母の介護のために教師を辞めて日本にいきました。でも、日本語は分かりません。生活の支援もありません。私は日本に来て1か月で日本語が分からないまま低賃金の仕事に就かなければならず、14年間働いて体を壊してしまいました。生活が苦しいだけでなく心も苦しく、毎晩眠れません。尊厳ある人間として生きたいです」日高秀子

「母の故郷は佐賀県武雄市東川登町です。昭和18年、母は6歳の時に杵島開拓団として満州に渡りました。終戦後、逃避行の中で祖父母は死亡し、残された8歳の母は中国人養父母に育てられました。私も日本人と同じ権利が欲しい、仕事をしたい。私も普通日本人と同じ安心した老後を送りたいのです」安娜

「私は1947年に残留婦人の2世として生まれました。1997年に50歳で日本に帰国しました。日本語が分からない内にすぐに仕事に就かなければなりませんでした。日本語が分からないため、余計な仕事をさせられたり、いじめられるのは日常茶飯事です。生活が苦しく、日本社会に調和できず、孤立しています」小島北天
#中国残留孤児