井戸川克隆さん(福島県双葉町元町長)が原発なくそう!九州玄海訴訟の佐賀地裁の法廷で意見を述べました。

1 私は昭和21年に福島県双葉郡双葉町に生まれました。県内の高校の機械科を卒業し、昭和45年に設備工事の会社を立ち上げました。平成17年に双葉町長選に出馬して初当選し、平成25年までの2期8年、双葉町長を務めました。

双葉町は福島県の浜通りに位置し、主要な産業は農業でしたが、1970年代に福島第一原発が立地されて以降、原発とともに発展してきた町でもありました。私自身も工事や保守点検のために福島第一原発に立ち入った経験が数えきれないほどあります。

もともとが技術畑の人間で、スリーマイル島の事故の後、わが国の原発の危機管理にも不安を持っていましたので、町長就任後、福島第一原発のトラブルには常に目を光らせ、細部までトラブルの報告を見るようにしていました。

2 平成23年3月11日の地震発生時、私は公務で町外に出ていました。所用を済ませて車を走らせた矢先に経験したことのない大きな揺れがあり、ハンドルにしがみつきました。原発のことが頭をよぎり、海岸線の裏道(浜海道)を通って役場へと急ぎましたが、カーラジオからは繰り返し「大津波警報」が流れていました。

役場に戻り、4階へと駆け上がって周囲を見渡すと、津波とともに海岸の松林や家々の木材が400〜500メートルのところにまで迫り、私が車を走らせた浜街道も津波に飲み込まれました。

すぐに町災害対策会議を立ち上げ、避難所となっていた各地の公民館や学校などを回りましたが、その間にも19時03分に菅直人首相から原子力緊急事態宣言が発令されました。20時50分頃に福島県が半径2km圏内の避難を発令したかと思えば、直後の21時23分には首相官邸から半径3km圏内の避難と10km圏内の屋内退避が指示されました。住民はその度、避難所を転々とすることを余儀なくされ、目に見えて疲弊し切っていました。

住民の避難を見届けて深夜0時過ぎに役場に戻り、テレビに釘付けになりながら徹夜での避難対策にあたっていましたが、翌日早朝午前5時44分には首相官邸から、半径10km圏内の避難指示が出されたことを、テレビで知りました。

テレビから入手できる情報以外に情報がないまま錯綜する避難指示に、これ以上、国や福島県からの指示を待ち続けていては住民を守ることはできないと判断し、双葉町では7時30分に全町避難を決定しました。防災行政無線を使い、「とにかくどうにかして避難してくれ」と叫び続けました。

14時には双葉町役場に残っていた職員に対し、最終退避命令を出して、双葉町役場を閉鎖しました。大方の住民を川俣町に避難させ、最後に残った双葉厚生病院と社会福祉施設、老人施設で、入所者や職員のためのバス等への乗車誘導をしていたその時でした。福島第一原発1号機が爆発し、その瞬間、周りにいた誰もが恐怖で無言になりました。

1号機が爆発して間もなく、空から塵やゴミが降ってきました。それは、まるで、音もなく、ゆっくりと舞い落ちる牡丹雪のようでした。首相官邸がようやく半径20km圏内の避難指示を出したのは、1号機の爆発から約3時間が経過したときでした。

中通りにある川俣町の町営施設には双葉町の住民約3千数百人が押し寄せることになりましたが、川俣町の皆さんは、自分たちも大変なのに町民たちの炊き出しをしてくれました。

しかし、官邸や福島県からは、その後何の指示もなく、県の災害対策本部に相談しても返事は返ってきませんでした。原発の状況も、汚染の状況も、テレビから伝わってくる情報以外のものは知らされませんでした。

3月14日、3号機が爆発したことをテレビで知りました。政府や県からは何の連絡もありませんでしたが、映像を見て、これは尋常な爆発ではないと瞬時に分りました。原発から30km以上離れた川俣町の避難所の窓際に置いていた線量計が一気に振り切れ、だめだ、ここでも危ない、と思いました。

私には、これ以上、国や県の無策によって双葉町民に無用な被曝を強いることはできませんでした。私の知り合いに、再避難の受け入れ先を探してもらい、その結果、埼玉スーパーアリーナに5000人の受け入れが可能との連絡があり、双葉町は埼玉県への全町避難を決断することができたのです。約2000人の双葉町民が四十台のバスに分乗して埼玉県に再避難しました。埼玉県が旧埼玉県立騎西高校の校舎の提供を申し出てくれたため、そこに仮設の町役場を設置したのです。

こうして、原発とともに生きてきた双葉町は、原発によって壊滅しました。

事故から14年が経過しましたが、未だに双葉町の85%は帰還困難区域であり、事故当時7140人いた人口は5641人に減少し、実際に双葉町で生活する数は180人ほどに過ぎません。

3 ドイツの政治家ビスマルクが語ったという「経験に学ぶ愚者、歴史に学ぶ賢者」という格言を福島第一原発事故に当てはめると、多くのウソが見えてきます。

事故以前に、原子力安全・保安院は何を語っていたのか、東京電力は何を約束していたのか、原発の周辺自治体は何を行っていたのか、事故前の歴史から学ばなければなりません。

事故以前、私は、原発の生命線である、発電所周辺監視区域「内」から、発電所周辺監視区域「外」に、いかなる理由でも放射性物質を放出しないことであると認識していました。

私が双葉町長に就任して間もない平成17年12月、都筑福島第一原発保安検査官事務所長の強い要請で時間を作り、原子力安全・保安院からの説明を受けました。

原子力安全・保安院の職員から渡された資料(資料①は、そのときに原子力安全・保安院の職員から受け取った資料であり、論より証拠の見本として、原子力行政に反対される方々は、永久保存されることを推奨します。)には、「妥協を許さない」「安全を確実なものとする」「万が一の緊急事態にも、日頃から備えています」などの美辞麗句が並んでいます。

私は彼らを信じました。信じたからこそ、双葉町の広報誌「エネルギーのまちふたば」に原発の安全性を謳ったのです。広報誌の一部を紹介します。

図1 原子力発電所の安全対策が記されている。

図2 原子力発電所の安全確保と多重防護について記されている。

図3 原子力発電所の地震対策について詳細に記されている。

事故後、国や東電は、全国各地の裁判で、地震・津波の予見可能性や結果回避責任を争っていますが、図3のような広報を信頼した双葉町民に「想定外」などという言い訳は通用しません。これは人災なのです。

震災直前の平成23年2月、政府の地震調査委員会が、東北地方の巨大地震が「いつ起きてもおかしくない」と指摘していたことを私が知ったのは事故後のことでした。国や東電が、そのような重大な情報を隠蔽していなければ、私は、「東京電力会社福島第一原子力発電所の周辺自治体の安全確保に関する協定」(略称:安全確保協定)に基づいて迷うことなく福島第一原発の運転停止を求めていました。

国やわが国の原子力産業は、双葉町の住民に対し、絶対安全などと偽って事故を起こし、地域社会を壊滅させ、有史以来の歴史の継続を断絶させ、将来への希望を壊し、回復しがたい傷を与えました。自身の立場と利権の為に、約1億1千9百万人の国民の生命、身体及び財産を危機に陥れ、拭いきれない恐怖を与えました。

その責任のみをもってしても、原子力産業は、もはやわが国から消滅しなければならないと確信しています。

4 原発事故後の政府の対応には、民主主義という概念が全く妥当しません。

事故や災害には多くの事例がありますが、福島第一原発事故では、被害者と加害者に対等という力学がありませんでした。そのため、被害者の声は遮られ、被害の実体が偽装されてきました。

私や双葉町民は、餌を与えれば鳴くことを止める動物と同等の扱い方を受けてきました。

憲法が国民に保障した権利は加害者たちの優越的立場によって歪められ、対話=合意を経ることなく密室で決められた20ミリシーベルトの線引きにより、事故前の1ミリシーベルト以下という基準は20倍にまで引き上げられました。

この線引きが、避難範囲の決定や賠償金の算定根拠、ウソの事故収束宣言、そして緊急事態宣言中の避難指示の解除や国民の健康を無視した現在の帰還政策等に繋がっています。

福島第一原発事故によって1ミリシーベルト以上の汚染があった範囲は、極めて広範に及んでおり、その範囲を塗りつぶして見ると、大きさがよく分かります。そこに暮らす人々がいることを想像するだけの正常な精神があるならば、その規模の大きさに息が詰まるはずです。

 

 ところが、事故以降、政府は、日本の法にはないIAEA,ICRP,UNSCEAR等の組織を便宜的に用い、推計、推定などという言葉で国民を欺き、放射性物質による汚染の実態や放射線被ばくによる被害を矮小化してきました。

憲法が国民に保障した権利は加害者たちの優越的立場によって歪められ、対話=合意を経ることなく密室で決められた20ミリシーベルトの線引きにより、事故前の1ミリシーベルト以下という基準は20倍にまで引き上げられました。

この線引きが、避難範囲の決定や賠償金の算定根拠、ウソの事故収束宣言、そして緊急事態宣言中の避難指示の解除や国民の生命や健康を無視して帰還を強いる、現在の帰還政策にも繋がっています。

事故直後には、福島県以北への流通が途絶え、新潟県から仙台市まで、ガスのパイプラインを敷くことが論じられたことがありましたが、時間と費用を考えた国や東電は、事故による汚染の範囲を20km圏以下という悪夢的に狭い範囲へと偽装し、これを国民に信じさせることによって、鉄道や高速道の閉鎖を免れました。「流通」という経済の動脈を守るために、国民の生命や健康が犠牲にされたのです。

しかし、ICRPも認めているLNT仮説によれば、100ミリシーベルト以下は長期的な健康影響がないなどと嘯くことはできません。直ちに健康影響はないなどという言説を振り撒く者は、国民を欺いているというほかありません。

本来、政府は、事故前の環境、少なくとも1ミリシーベルト以下という環境が回復するまで、国民を避難させるべき責任があったはずです。そして、避難とは事故前の環境に戻るまでの待機時間なのですから、その間の住民の生活を維持できる場所の提供が先ず考えられなければならなかったはずですし、環境が回復するまでの補償制度も構築されなければならなかったはずなのです。

そのような事故前の約束が破壊され、憲法が保障する民主主義や国民の諸権利もことごとく破壊されたその上に、現在の日本や福島のあり得ない復興が存在しているのです。

5 もし万が一、玄海原発が福島第一原発と同じ経過を辿るならば、放射性物質は風下へと流され、年間1ミリシーベルトを超える汚染範囲は下図のように想像を絶する規模になると思われます。

このような甚大な規模の放射能汚染に対して、一体誰が責任を負えるのでしょうか。

 福島第一原発事故を経験した原発立地自治体の長として申し上げます。

決して原子力事業者の言いなりにならないこと。政府は必ずウソをつくこと。実行できない避難計画を作らないこと。原発の稼働に際して、稼働を認めた者の責任を明確にし、認めた者と原発事故に伴う被害の補償契約を交わしておくことが必須であること。

福島第一原発事故の歴史に学ぶことなく、双葉町の住民の被害に学ぶことなく、玄海原発の稼働を許してはなりません。

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