昨日「6.19 伊藤先生と歩く中央区の戦争遺跡-振武寮を知っていますか?」(中央区九条の会、terra cafe kenpou、原発なくそう!中央区の会)を開催しました。小学2年生を最年少に多くの市民の皆さんにご参加いただきました。
案内は、西南学院大学国際文化学部の伊藤慎二先生。

冒頭、陸軍振武寮に関する資料映像を視聴しました。
出撃したけれども何らかの理由で生き残った特攻隊員を収容した施設が振武寮です。
生還の可能性のない文字通り「必死」の作戦である特攻の中で生存者がいるということは軍の士気に関わり、何より大本営発表に対して国民の不信を招くこととなるという理由で、生存隊員は振武寮に監禁され外部との一切の接触を絶たれます。家族にも生存は知らされず、息子は死んだものと思った家族は葬式を挙げました。
振武寮で、隊員達は、上官から「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒され、反省文や軍人勅諭の書き写し、写経を命じられ、拷問も行われたと言われています。資料映像では、生存隊員だけでなく、彼らを罵倒し続けた上官の側からの証言も残っていました。
国のために一度は命を投げ出すことを覚悟した少年達へのあまりにも酷い仕打ちに、振武寮では自殺者も出たということです。

中央市民センターの前で、70余年前ここがどういう場所であったのかの説明を受けました。
現在、中央市民センターに隣接して福岡高等・地方・簡易裁判所がありますが、かつてここは、帝国陸軍西部軍司令部でした。裁判所の敷地にむき出しのコンクリート柱が残っていますがそれが当時の名残りです。隣の舞鶴公園は陸軍福岡連帯(歩兵第24連隊)。つまり、この一帯に陸軍の重要施設が集まっていました。福岡大空襲はこれらの施設を狙ったものと言われています。
1945年6月19日深夜、福岡の街は空襲を受けました。
翌20日、陸軍は、米軍捕虜を処刑します(ちなみに空襲に関わった米兵ではありません)。米兵を処刑したのが今の福岡市立赤坂小学校の校庭です。

西部軍司令部跡から、南へ800m程徒歩で移動。城南線を渡った薬院4丁目に福岡県職員薬院寮(警察官舎)があります。そこはかつての陸軍省福岡連隊司令部。当時を知る方の証言によれば憲兵隊があったとのこと。伊藤先生の案内でこの一帯をグルリと回ると、足元に「陸軍」と彫られた石柱がいくつも残っていることが確認できます(恥ずかしながら、ここは何度も歩いているのですが一度も気づきませんでした)。

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この憲兵隊からはすぐ南に振武寮が見えます。
憲兵隊の目と鼻の先に生存特攻隊員を収容したというところに陸軍の意図を感じます。
振武寮は、今の九電記念体育館の敷地内にありました。弓道場のあたりです。
九電記念体育館は、1960年までは福岡女学院の敷地でした。また隣接する福岡中央高校は、当時、福岡高等女学校でした。陸軍は両校を接収し、陸軍第6航空軍司令部を置きます。
その司令部の敷地内(福岡女学院の寄宿舎)を振武寮にし生存特攻隊員を収容しました。
福岡高等女学校(現福岡中央高校)の第三棟で、特攻隊員に対して拷問等が加えられました。
九電記念体育館の敷地内には当時設置されたと思われる井戸の跡が残っています。周辺を発掘すれば当時の資料が出てくる可能性が高いと言われています。
福岡中央高校の石垣は航空軍司令部当時のものがそのまま残っています。

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薬院に暮らしていながらこの場所で特攻の悲劇が繰り返されていたことを知りませんでした。
福岡では目に見える戦争遺跡が非常に少なく歴史の風化が懸念されています。風化だけでなく歴史の美化・修正が行われています。それは福岡だけでなく日本各地で起こっていることでしょう。
伊藤先生は考古学者としての立場からこう述べています。
「日本帝国期の軍国主義体制に関わる特徴的な戦争遺跡の調査研究は、日本国の立憲民主主義体制の根幹原則である国民主権・基本的人権・平和主義の原点を確認するうえで、今日重要性が一層増していると言える」