原発なくそう!九州玄海訴訟での佐藤勝十志さんの意見陳述
1 東京電力福島第一原発事故時の私
私は、昭和62年春に大学、就職と過ごした横浜市からUターンし、父が相馬市で経営していたシステムエンジニアリング株式会社に入社し、会社業務に必要な一級電気工事施工管理技士や管工事、シーケンスなどの資格を取得して、ユーザー工場の生産設備の設計施工やメンテナンス企画立案、工場建設まで手がけていました。 原発事故が発生した平成23年は会社創立50年を迎える年で、私は父と交代して社長に就任して新たな経営刷新支援事業も始めるところでした。
2 東京電力福島第一原発事故当時の私の家庭
大震災が発生した3月11日、私は福島第一原発から43キロ離れた相馬市の自宅で、妻惠里子49歳、娘志保理15歳、母キミイ(要介護で自宅介護)73歳の5人で暮らしていました。父清73歳は震災の直前、がんの疑いで公立相馬総合病院に入院していました。
3月11日は娘の中学卒業式でした。娘は吹奏楽部に所属し全国吹奏楽コンクール大会に3年連続で出場し、教師になり吹奏楽の指導者になることを目標に、県立学校に合格しており、入学を楽しみにしていました。私たち夫婦は娘の卒業式に出席して、帰宅後、娘の成長や、高校の入学式にも出席しよう、そして自分自身50歳という節目の年齢を迎えて、これからの事業のためにもうひと踏ん張りして頑張ろうなどと妻と話していました。
そんなときに、あの地震が発生し原発事故が起きたのです。
3 原発事故について真実を伝えない不信から避難を決断
大震災の翌日3月12日早朝、私は会社の顧客工場の被害復旧のため、原発のある双葉郡大熊町に向かいましたが、国道は津波による冠水被害が何か所もあり走行が困難でした。双葉町に入る所で警察の検問があり、原発がある双葉町大熊町方面への進入は許可されず工場には行けませんでした。検問所では「原発の点検をしているため周辺に入れない」「万が一のことがあるといけないので」と言われました。仕方なく帰路に就くなか、原発が危険な状況になっていて、15時36分に原子炉建屋で爆発が起きたことをラジオで知りました。
自宅に帰ると、娘が「原発が爆発した、大丈夫なの?」ととても怖がっていました。
ところが、報道で「爆発したのではなくベント作業により内部圧力が爆発的に大気開放されたから」だと説明しているものがあり、「ベントで外壁は吹っ飛ばないだろ」と思わず叫び、違和感を持ちました。その後も「屋内退避で充分で、屋外避難が生じるような大事故は起きない」といった報道が繰り返されていました。
しかし私は仕事の関係で放射能被害について勉強していたので、「放射能に対する一番確実な対策は、被曝しないことである」という認識を持っていましたので、原子炉建屋爆発という異常事態が発生しているにも関わらず「避難しなくてよい」という報道がされていることに不自然さを感じ、いま原発では大変なことが起こっている、正確な情報が公表されていない可能性が強い、子どもだけでも避難させようと思って父に相談して、娘を弟が居る滋賀県栗東市に避難させることにしました。
3月13日朝、妻の軽自動車に娘を乗せて相馬市内の自宅を出て、滋賀県栗東市の避難先に向かって出発しました。途中、相馬警察署で道路状況について尋ねましたが、役に立つ情報は得られず、道路は法面の大規模な土砂崩れが発生していて迂回を余儀なくされたり、渋滞が続き、東京駅に着いたのは14日の深夜3時頃でした。14日始発から東海道新幹線が運転するというので、始発の発車を待ちました。娘は車内に入り座席につくと発車直前に泣き出してしまって心が痛みました。東京駅からの帰途、ニュースで「原発がメルトダウンを起こした可能性が高い、これから一回目の爆発を超えるような爆発がおきる可能性がある、被曝を避けるように安全な所にいったん避難し、事故が収束し安全が確認できてから戻るのが一番正しい対応です」と言っていました。その後に、2度目の爆発事故が発生した時、私は娘を早く非難させていて良かったと安堵し、家族全員避難すると決心しました。妻は最初を渋っていましたが、今後も爆発が起こる危険があることや、被爆した場合、治療や対応方法がないことを説明すると納得しました。入院中の父も避難させたいので、父が入院している病院に避難の許可を貰いたいと連絡して、車を相馬の自宅に向けました。自宅に着いたのは14日夕方5時頃でした。妻から母の薬が病院に届かないため貰えない、あとは自己責任で、と言われたそうです。父の退院は認められませんでした。病院からは「もし何かあった場合、自衛隊がヘリコプターで患者さんを輸送する手はずになっているので大丈夫です。」と言われたので、父を避難させることは諦めて、14日深夜、妻と母を同乗させて、再び滋賀県に向かって相馬市の自宅を出発しました。
福島市内に入った所で市役所の電気がついていたため、母のトイレの為借りたところ、テーブルの上にはたくさんのお弁当があったので、「分けていただけないか」と尋ねましたが、「これは避難して来た人のためのお弁当なので差し上げられません。」と言われました。その後、東名高速に乗ってからは燃料や食事が手にはいり 15日昼頃に滋賀県栗東市の弟宅に到着しました。直ぐに妻と栗東市役所に向かい、避難してきた事と支援が必要であることを伝え、持っていた名刺が無くなるほど多くの人にお願いしました。
翌16日には、津波で車をなくした避難を希望する娘の同級生家族を迎えに、再び相馬市に向かい、18日に戻ると、関西広域医連合の支援決定により栗東市の市営住宅に入ることが出来ました。そこで、多くの新聞テレビの取材を受け、娘の高校進学の支援をお願いしました。これが功を奏して、娘は後で滋賀県立草津高校に入学出来ました。こうして私の一家4人は入院中の父を残してですが、滋賀県栗東市の市営住宅に避難し、入居出来ました。その日は落ちるように眠り込みました。
4 妻にPTSDの異常行動が出る
19日翌朝待っていたのは妻の異常行動でした。朝、覚めた時、娘からお風呂場を見てくれと言われました。浴室に入ってみると、浴槽の中には持ってきた洋服などがお湯の中に浸かっていました。傍らの妻を見ると下着のままびしょ濡れになっていて、興奮した状態で「福島から持ってきたものは放射能で汚染されているから、きれいに洗って落とさないといけない」と言っていました。
19日の晩、妻はほとんど眠らず、救急車やパトカーのサイレンを聞くと飛び起きて荷物をまとめようとしたり、車の赤いテールランプを見ると「パトカーが来た。原発が爆発した。避難しないといけない。」などと言って飛び起きるような異常な行動をしていました。妻の異常に気付いて、栗東市福祉課に相談して紹介して貰った滋賀県精神医療センターを受診しました。妻は相馬に居た時、軽度のうつ病で通院していましたが、原発事故以前、病状は軽快していました。妻を診た医師は妻には「基本うつがあったのが、そう転して、今はそう状態になっている。一番の懸念はそう状態からうつ状態に戻ると、自殺行動を衝動的にとってしまう危険がある」ので、直ぐに入院するようにと言われました。妻は「原発事故と放射能被害に対する不安が原因のPTSD」と診断され、1年間入院して、平成24年4月退院しました。医療費は66万円余掛かりましたが無料にはならず自己負担でしたので、病院にお願いして、長期分割で支払いをしました。妻は退院後も通院を続けていますが、原発事故が原因のPTSDであるため、主治医からは、福島には一時的に帰ることは認められても、帰還して居住することは認められないと告げられています。
5 地元の病院で十分な医療を受けられなかった父の被害
私の気がかりは父を残して避難して来たことでした。父が入院していた公立相馬病院は「何かあったら、患者は避難させる。」と言っていましたが、父によると、原発の爆発後は治療らしい治療を受けられなかったので、相馬市の自宅に戻り、通院に切り換え、症状が悪化すると入院して、また通院することを繰り返し、体調が良い時は顧客からの仕事の要請に応じて来たという事でした。病院は閉鎖にはならなかったものの、原発の爆発事故後、相当数の職員が避難等して戻らなかったために、十分な医療が受けられなかった、それを福島県立医科大学を通して東大医学部から若手の医師らを補充したものの、急ごしらえのために病院が十分に機能せずに不十分な医療しか受けられなかった、と言っていました。そのことが原因だと言いませんが、父のがんはその直後、余命半年と宣告される程急に悪化しました。幸い緊急搬送された仙台市の病院での治療が功を奏し、父は命をつなぎ留めることが出来ました。その病院から父はきちんと治療を継続すればまだ生きられるが、相馬市の医療は今、最低の状況なので認められません、と言われたので、私は平成26年、父を避難先の滋賀県の住宅に引き取り、同居して、父の治療と療養に努めました。そこで父の病状は母と車で出かける程の回復しましたが、平成31年3月、突然昏睡状態に陥り82歳で、福島に帰るという希望をかなえることなく亡くなりました。
6 行政の残酷な線引き
避難指示区域の大熊町にあったユーザーの工場がいわき市に移転し、生産ラインを再構築するというので、その移転工事を依頼され、私は父を車で送迎しながら、頻繁に滋賀といわき市を行き来しました。しかし、いわき市には宿泊できるホテルはどこも復興要員で満員で、私はサウナに泊まりながら移転工事を完成させ、工場を製造開始にこぎ着けました。お客様から私の会社をいわき市に移転させて仕事の面倒を見て欲しいという、大変ありがたい申出をいただきましたが、結局、移転に必要な土地建物を確保することが出来ずに断念しました。移転補償事業がありましたが、対象は避難指示区域内の企業だけで、私の会社のように避難指示区域外の会社は何の支援も受けられないことがはっきりとしました。また避難指示区域内であれば移転費用も出ましたが、区域外であるためこれも出ませんでした。しかし相馬双葉地域は企業、教育、物販など様々なインフラが自治体を縦断して成り立っていることが、地元自治体では当たり前でしたが、原発から30キロの線で機械的に線引きされてしまっていました。このため、今までのような仕事をお客様に提供することは出来なくなり、泣く泣くお客様の申し出を断念するしかありませんでした。
これによって、当時売り上げの6割を占めていた一番大切な顧客を失ってしまい、その損害は大きく、資金繰りが極端に悪化し、地元の相双信用組合が抵当権の実行を通知して来ました。地元の金融機関でしたが、相馬市の企業がおかれている状況を考慮してくれませんでした。福島県や国にも相談しましたが、有効な手立てはなく、平成26年には自宅も会社事務所の土地建物もすべて差押え競売となってしまいました。東京電力からの賠償が何も進んでない時期に返済を要求され、対応が出来ず、差押え競売となり、自宅、会社事務所不動産全部を取られてしまいました。
平成27年には法務局から会社の法人登記の職権抹消の通知が来て、会社は消滅してしまいました。誠実で勤勉な父が50年前から営々と築いて来て、地元の顧客企業の発展に寄与してきたわが社は、東電の原発事故によって存続が不可能になり、倒産してしまいました。病弱であった父清の落胆は計り知れませんでした。このような状況に追い込んだ東京電力、国等の対応に私は非常な怒りを覚えています。
7 娘の甲状腺被曝
2012年より滋賀県民医連のご協力で、エコー検査だけでなく健康診断、血液検査、心電図等の検査を行って貰うになりました。私の娘も高校2年の夏休みに甲状腺のエコー検査を受けたところ、のう胞が見つかりA-2判定(大きさが20mm以下ののう胞、または5mm以下の結節が認められた状態)を受け、私は目の前が真っ暗になりました。このような事を防ぐために避難したはずなのにと妻と落胆しました。検査の前、正直なところ不安要素がありました。娘と避難の際、通過した国道15号線は、あとで避難指示区域となった飯館村の北側を走る道路でした。後日公開されたスピーディ(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデーターではその道路に沿うように放射性物質が流れたのが確認されていました。避難の際にそれが分かっていれば絶対に選択しない道でした。スピーディのデーターを出さなかったのは、住民のパニックによる混乱の発生を防ぐためということですが、私たちはその情報が示されていればパニックにならないよう冷静に行動することは出来ます。住民に知らせるとパニックを起こすからと言って、住民を見下して、娘に被爆させたことは本当に許されないことだと思います。
娘は避難先の滋賀県立草津高校の校長先生の計らいで高校に入学出来、京都府立大学に進学して大学を卒業して、現在、京都市内の会社に就職して働いていますが、私たちは毎年、娘に悪性の診断が出ないことを祈るような気持ちですごしています。
8 最後に申し上げます
大震災の時、私は地元の区長をしていて、地区の皆さんのところを訪ねて震災の被害状況を確認していました。私たちが暮らしていた相馬地方は歴史と自然が豊かで、地域の住民同士助け合って生活していました。それが、原発事故で地域住民はバラバラになり、私たち一家も豊かで平穏な日常生活からどん底の生活を強いられてしまいました。妻は原発事故が原因でPTSDになり、一家は相馬への帰還は許されなくなり、私も娘も仕事や学業への夢や希望を壊され、両親も頑張って建てた広い自宅を奪われ、私と父は会社を倒産させられて仕事を失い、両親は健康を悪化させ命を縮めてしまいました。
私たち一家と地域が原発事故で受けた被害は本当に計り知れません。
裁判官の皆さんには、原発事故の被害が深刻でとてつもなく大きく、12年経った今もなお続いていることを、ぜひ知っていただきたいと思います。
ところで、私は関西避難者訴訟の原告団代表もしていますが、昨年6月の原発賠償事件の最高裁判決はひどいものでした。判決は、国が津波防止の規制権限を行使したとしても、津波による被害発生は防止できなかったので、国には賠償責任はない、というものでした。この判決は間違っていると思いますが、国は原発が事故を起こす前は、「原発は安全です、絶対に事故は起きません」と言っていました。
しかし、現実に原発が爆発事故を起こると、その責任を取ろうとしません。
こんな不正義が許されて良いはずがありません。
私は、裁判所には国民が司法に期待する正義を、ぜひ実現していただきたいと切にお願いいたします。
また、私は国が責任を取らず国民に被害を押し付けて犠牲を強いる原発の運転は、ただちに停止して貰いたいことを申し上げまして、私の意見陳述を終わります。
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