本日、安保法制違憲福岡国賠訴訟が結審を迎えました。
弁護士で福岡高裁元所長の簑田孝行さんが法廷で意見を述べました。
先週12月8日は、真珠湾攻撃による太平洋戦争突入80周年の記念日でした。新聞、テレビはこぞって、同戦争が如何に悲惨であったかを報道し、平和の大切さを強調していました。この記念すべき12月8日から1週間弱の本日、本訴訟事件が結審するに当たって、原告ら訴訟代理人の一人として、裁判所に訴えたいことを述べます。
太平洋戦争で、我が国は、未曽有の、筆舌に尽くしがたい310万人以上の日本人が犠牲になった被害の歴史と、アジア・太平洋各国に2000万人以上の人々を犠牲にした加害の歴史を経験し、戦争が最大の人権侵害であること、戦争が人間を人間でなくす悲劇を生むことに思いを致し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」(憲法前文)、わが国の「最高法規」(憲法第十章)である日本国憲法は、憲法9条に象徴される現在の平和憲法を制定し、平和主義を全世界に高らかに宣言し、1946年11月3日(現在の文化の日)に公布され、翌1947年5月3日(現在の憲法記念日)に施行されました。原告らは、現憲法を自分たちの宝のように大切に扱い、いとおしく思い、日々の生活の羅針盤としている者たちです。憲法施行後、憲法9条は、幾多の試練を経ながらも、安倍内閣前の歴代の政府と国民は、憲法解釈上も集団的自衛権の行使を否定し、国権の発動たる武力行使により他国民を殺し、また自国民が殺されることを容認してきませんでした。
原告らは、1959年12月16日の砂川事件の最高裁判決が、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り、裁判所の司法審査権の範囲外のものである」と言った判示を踏まえて、集団的自衛権を容認した新安保法制法は、「一見極めて明白に違憲無効であると認められる」から「裁判所の司法審査権の範囲内のものである」と主張して、裁判所に司法審査権の行使を求めています。
ここで、裁判官、弁護士、国側代理人に記憶を喚起し、そして傍聴しておられる皆様方にも分かり易いように、原告らの本訴訟の主張の骨幹、前提をなす、砂川事件について簡単におさらいしましょう。すなわち、同事件とは、かつて、立川米軍飛行場に核兵器も搭載可能な爆撃機の離着陸も可能な滑走路の拡張計画が持ち上がり、土地を奪われる農民をはじめとする反対運動が展開された中で、1957年国が強制測量をした際、運動していた一部の者が米軍基地内に数メール立ち入ったとして旧日米安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法(とは、正当な理由なく立ち入りが禁じられた駐留米軍施設に立ち入る行為を処罰する規定)違反の罪を問われて起訴された事件のことです。同事件を担当した伊達秋雄裁判長は、米軍の駐留を許したのは、憲法9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり違憲であるから…刑事特別法の罰則は、憲法31条(適正手続の保障)に違反する不合理なものであって違憲無効であるとして被告人全員を無罪にしたのです(伊達判決)。これに対して国は最高裁に飛躍上告を申し立て、最高裁は、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り、裁判所の司法審査権の範囲外のものである」と言ったのです。「一見極めて明白に違憲無効であると認められ」れば、「裁判所の司法審査権の範囲内のものである」と言ったのです。
安倍元総理の話に戻りますが、国の内外で、「法の支配」、「法治主義」を声高に述べてきました。続く菅元総理、現在の岸田総理も然りです。「法の支配」とは、rule of lawであり、専断的な国家権力の支配を排し、権力を法で拘束するという近代憲法の基本的原理であり、その頂点にたつ規範が憲法です。憲法を羅針盤として、下位の規範たる種々の法律等が制定され、この法体系が遍く社会の隅々にまで押し及ぼされることが法治主義なのです。当然の帰結として、為政者は憲法に縛られて政治を行うべきであるという立憲主義の考え方が導かれます。
にもかかわらず、安倍内閣は7年前2014年7月、憲法改正手続を経ることなく、一片の閣議決定で集団的自衛権行使が憲法上許されると解釈を変更し、恥ずべき実態の国会審議を経て、その具体的な発動を可能にしたのが、私たちが憲法違反だと主張しているいわゆる新安保法制法です。これは、海外で、自他の国民を「殺し、殺される」ことを法的に可能にし、容認したのです。法的には、憲法96条の規定する憲法改正手続を経ることなく、下位法たる新安保法制法で最上位の憲法の規定を実質上変更する暴挙により、憲法9条の規定を実質上解釈で変えた、という意味ではある憲法学者が言う通り、クーデターなのです。これは、安倍元総理のいう「法の支配」、「法治主義」とは真逆のことであります。
西ドイツ大統領の故ヴァイツゼッカーさんが、1985年の連邦議会における演説の中で述べた「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり目を閉ざす者となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」との一節は有名ですが、安倍元総理は、国民が内外で経験した未曾有の、悲惨極まりない被害・加害の歴史に目を閉ざしたのです。これからの戦争の悲惨さは、過去の比ではなく、自分だけが安全地帯にいることはあり得ません。現在の新型コロナウイルスに目を転じても、世界全部にコロナウイルスワクチンが行き届かないと、コロナウイルスの禍から免れることはできません。宮沢賢治が、『グスコーブドリの伝記』で、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とい言葉が想起されます。相手方にも私たち同様、家族があり、子や孫がいます。安倍元総理が歴史に目を閉ざしても、裁判官を含め国民は、人間として決して歴史に目を閉ざしてはなりません。戦争被害の実態を忘れてはいけないのです。にもかかわらず、安倍元総理を引き継いだ菅前総理、現在の岸田総理も、歴史に目を閉ざしているのです。敵基地攻撃能力の保有の検討を開始しようとし、憲法改正への動きを加速させている最近の情勢は、あたかも戦前の歴史を繰り返そうとしているかのような危機感を禁じ得ません。
ヴァイツゼッカーさんは、別の演説で、「自由民主主義体制において必要な時期に立ち上がるなら、後で独裁者に脅える必要はない、自由民主主義擁護には法と裁判所だけでは不足で、市民的勇気も必要である。」とも述べています。「勇気」とは「言う気」でもあります。一人ひとりでは微力ですが無力ではありません。原告らは、日本人が犯した過去の戦争体験に目を閉ざすことをせず、今後の戦争の桁違いの残酷さに思いを馳せ、憲法違反の新安保法制法により、それぞれが精神的被害を被ったと具体的に主張し、司法の場でその精神的被害の事実を声に出して訴えることが、人間としての存在価値である、後世の子孫、歴史に対する責任であると判断し、声と足を震わせながら、微力を結集し、提訴に立ち上がったのです。
原告らは、来年に予定される法壇にいる裁判官諸氏による判決を、固唾をのんで注視しています。というのは、憲法第76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と「裁判官のあるべき姿を」厳かにうたいあげ、第78条で身分を保障された裁判官には、第99条で「この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という崇高かつ厳粛な義務を負わせているからです。「法の支配」を最終的に司る裁判官諸氏がこれら憲法の規定をお忘れになることはありますまい。小中学生のころ、「義を見て為ざるは勇なきなり」という言葉を学びました。「見て見ぬふり」をするのも同義と言ってもいいでしょう。そういうのを卑怯者、臆病者と習ってきました。自分たちは良心と憲法に従って、国民と歴史の審判に耐えられる裁判をしているだろうかと自問自答しながら、判決書作成に立ち向かっていただきたく、それを私たちも、また後世の国民も注視していることを訴えて、私の意見とします。