本日、安保法制違憲福岡国賠訴訟が結審を迎えました。

弁護士の後藤富和が法廷で意見を述べました。

1 想像力が試されている

  私は1968年(昭和43年)に生まれ、幼い頃を春日原の米軍ハウスで過ごしました。当時、福岡市南部や春日、大野城は米軍基地の町でした。街には英語の看板が溢れ、アメリカのテレビドラマで見るような芝生の中に白いハウスが並ぶ姿に、幼いながらも日本が敗戦国であることを感じていました。

福岡の各地にあった米軍基地はその後沖縄に移動し、私達が普段の生活の中で戦争を感じることはなくなりました。

私達の世代は、戦争を遠い過去の話として、戦争の恐怖に怯えることなく50年を過ごしてきました。平和憲法9条があるのが当たり前で、戦争がないことへの感謝など感じることなく、空気のように平和がある社会を生きてきました。

学校では、福岡大空襲があった6月19日と原爆投下の日に平和学習を受けました。市民が犠牲になった悲惨な状況に目と耳を塞ぎたくなるような時間でした。でも、日本人の被害は学んでも加害の歴史を学ぶことはありませんでした。戦争とは、空襲で日本人が犠牲になることでした。

私の祖父は、徴兵で中国大陸を転々とし、6月19日の福岡大空襲の際は、前の福岡地裁のお堀にある橋の下に隠れ、終戦時は本土決戦に備え宮崎県の海岸に穴を掘っていたそうです。ただ、祖父から聞く戦争は、中国で美味しい餃子を食べたことや、中国人から炒飯の作り方を習ってきたといったもので、辛かった体験などは一言も話しませんでした。その祖父が、中学生の私の目につくところに森村誠一著「悪魔の飽食」を置いていました。私は貪るようにその本を読みました。そこで、日本人が中国大陸で行った悪魔の所業を知りました。朝鮮や中国の青年達を拉致して福岡の炭鉱などで強制的に働かせ多くの犠牲が生じたことも知りました。

私は博多駅に近い高校に通っていたのですが、バブルの好景気にも関わらず博多駅裏の川沿いに在日コリアンの方々が暮らすバラックがビッシリと立ち並び、そこだけ時が取り残されたようでした。周りの大人達は、在日の子どもとは遊ぶなと言います。そのような中、在日の友人がビルから飛び降りて自殺をしました。戦争はとっくの昔に終わったのに、世代を超えて戦争の後遺症に苦しむ人たちがいることに衝撃を受けました。それと同時に、私にできることはなかったかと自分を責め続けました。その意識は今も続いています。

私達の世代にとって戦争は過去の話であり遠い外国の話です。でも、少し調べるだけで戦争は至るところにあることが分かります。

前の福岡地裁の隣にある赤坂小学校の校庭では、福岡大空襲の翌日、空襲とは無関係のアメリカ人数人が公開処刑されました。また、神風特攻隊を「荒鷲」「軍神」と崇めながらも、エンジン不調などで引き返した特攻兵を軍は軟禁し「怖くて逃げ出したんだろう」「卑怯者」「人間のクズ」と罵声を浴びせました。その屈辱に自殺をした若者も多数いました。この収容施設「振武寮」は薬院4丁目にありました。

いくら戦争とはいえ、このアメリカ人も生き残った特攻兵も、殺される理由も、死ななければならない理由もありません。私達市民が被害者ではなく加害者となったのです。このことは学校では教わりません。

平和について学ぶ時、私たちは被害者になることだけでなく、加害者になる可能性があるということを考えなければならないと思います。自分がコンビニで支払った消費税が、自分が投票した結果が、自分が選挙に行かなかったことが、そして、自分が何もしなかったことで、遠くの国の市民が殺されるかもしれない。そういう想像力が試されています。

2 憲法が求める役割をきちんと果たすこと

私は3年前まで福岡市立警固中学校のPTA会長をしていました。入学式でこのような挨拶をしました。

「警固中学校校歌の中に『絵巻は展く平和台』とあります。平和台というのは警固中学校のすぐ隣にある舞鶴公園の別名ですね。でも71年前まで平和台という地名はありませんでした。かつてこの一帯には日本軍の軍事施設がありました。戦争で福岡市は焼け野原になり、もう二度と戦争はしない、子ども達に平和な未来を残したいとの強い思いで、この場所を『Peace-Hill』すなわち『平和台』と名付けました。その願いの通り、私たちは70年間、戦争の恐怖に怯えることなく平和の中で暮らすことができました。そして今、私たち大人は、皆さんにも飢えや戦争の不安がない社会を引き継いでいきたいと強く思っています。皆さんの平和な暮らしを脅やかすものがあれば、私たちは全力でそれを排除します。(略)義務教育というのは子どもの義務ではなく大人の義務のことです。子どもにあるのは義務ではなく『教育を受ける権利』です。子どもが安心して教育を受けることができるように環境を整えること、子どもの成長を阻害することに対しては全力で立ち向かっていくことが私たち大人の義務です。」

私が安保関連法に反対しこの裁判の弁護団に加わり国と戦うのは、弁護士としての使命であるとともに、子どもたちに平和な社会を残したい、安心して勉強ができる環境を守りたいとの親の義務からです。

私は毎年、公務員専門学校で、公務員試験に合格した学生を対象に「暮らしと人権」の講義を担当しています。市民向けの講演と異なるのは、受講者が憲法尊重擁護義務を負う公務員になる学生だということです。その学生に向かって、公務員が持つ力はとても大きく、使い方を誤れば人の命すら奪うことができること。だから、その力によって市民を苦しめることがないように、憲法を守って仕事をすること。困っている市民を助けたいという初心を忘れないように、憲法で与えられた職務をまっとうしてくださいと話をします。

人権や憲法の講演の際、市民から「これだけ政府や国会が憲法を蔑ろにしているのに法の番人である裁判所はなぜ手をこまねいているのか」という質問が必ずと言ってよいほど寄せられます。

この質問に対しては、具体的争訟性や司法消極主義といった説明をしますが、その説明で「分かりました」と納得する市民はいません。政府や国会がまともな議論もせず数の論理で押し切り憲法を蔑ろにする中、市民たちは、最後の砦としての裁判所の役割に大きな期待を寄せているのです。

裁判所には、憲法で与えられた立憲主義の最後の砦としての役割をまっとうしていただきたいと思います。

今こそ、裁判所が市民の期待に応えるときです。