本日佐賀地裁で開催された原発なくそう!九州玄海訴訟(原告9396人)の口頭弁論において、福島県二本松市の農家根本敬さんが意見を述べました。

1.原発事故で農民は追い詰められた
私は、福島県二本松市で水田3ヘクタール、柿畑30アール、野菜畑20アールを耕す農民です。現在、福島県農民運動連合会(「福島県農民連」)の会長を務めています。そして、福島地裁において国と東京電力を相手に原発事故による被害の原状回復と損害賠償を求めている「生業訴訟」の原告です。私が暮らす場所は、福島第一原発から約60キロメートルの地域です。
原発事故によって農民たちは、追いつめられています。有機農業を実践してきた須賀川市の農家は、キャベツの収穫を前に自らのいのちを絶ちました。亡くなる前日、妻に「これで福島の農業は終わりだ」と言って。相馬市の酪農家は、フィリピンから嫁いだ妻をフィリピンに戻して、黒板に「原発さえなかったら」と書き付けていのちを絶ちました。計画的避難区域に指定された川俣町山木屋地区から福島市に避難していた農家の妻が「家に帰りたい」と夫に言い残して、一時帰宅した翌日に自宅庭先で焼身自殺しました。農民にとって、土は命です。その命が放射能で傷つけられているのです。
また、原発事故によって農民は自ら育てたものを捨てざるを得なくなっています。酪農家は、牛を殺処分し、牛舎に置き去りにし、乳を搾っては捨て、絞っては捨てる作業を繰り返しました。野菜は畑に埋めて処分し、売れない桃やさくらんぼはゴミとして廃棄しました。私たちは、自分の作った農産物を家族、特に子や孫に食べさせられませんでした。子や孫に土遊びをさせることは今でも困難です。
私は、原発事故の年、耕作は控えようと考えていました。しかし、84歳の父から「近所の人が作っているのにどうしてうちでは作らないんだ」と責められました。ブログで「農地の汚染状況がきちんとわかるまで栽培は見合わせたほうがいい」と書くと、ある自治体の方から「お前の言っていることは風評被害を助長するものだ」と電話で怒鳴られました。私の水田の土は、1㎏あたり5020ベクレルでしたし、現に作物の根からも葉からも放射性物質は出ているのです。私はこう言いました。「風評ではありません。実害です。私たちの農地や作物は放射能で汚染されています。その実態も把握されていません。汚染状況の確認が先です。」すると彼は「作らないで賠償は出ないだろう」と言って電話を切りました。

2.それでも農民は「大地を受け継ぐ」
翌年、私は米の栽培を再開することにしました。放射能の汚染状況はまだ十分に把握できませんでしたが、自分たちで線量計や検査機器をそろえて大まかの状況が分かったのと、父との関係からでした。出演したラジオ番組で、京都大学の小出裕章さんからこういわれました。「根本さんにはそこに住んでほしくない。」私は、こう応えました。「うちの父は84歳です。この父をこれ以上悲しませたくないんです。84歳の父にここを離れろとはいえません。何も作るなとは言えません。生まれた地で生きて、生まれた地で死んでゆく。その選択ぐらいさせたい」と。
この6月に国は、帰宅困難区域以外の避難地域をあと2年ですべて解除し、賠償も打ち切る方針を出しました。生活も生業の見通しもない中で、「帰るか帰らないかはあなたの自由です」というのです。福島切り捨てです。
農民は、いまも葛藤しながら作物を作っています。土壌が汚染されたとはいえ、土を耕し、作物を育てなければ、農地はダメになってしまいます。私たちは、20年後も30年後もこの地に生きるしかありません。荒れ果てた農地には生きられません。
農民は、本来、作った作物を“美味しいから食べてくれ”と渡します。しかし、いまは“美味しい”の前に、“安全だから”とか“未検出だから”という言わざるを得ません。なぜ農民が、こんな言葉を自分たちで言わないといけないのか。東電がまき散らした放射能のために。
土を守るということと、人の口に入る物を作っているということとの間での、私たち農民のジレンマは解決の糸口をいまだ見出せません。

3.「引き受けるべき責任」と「背負わされる覚悟」
私は、今考えていることがあります。それは、法的責任とは別の意味で、大人にとっての「引き受けるべき責任」と、子どもたちに強いる、子ども達にとっては「背負わされた覚悟」です。
原発事故の法的責任は、私たちが負いきれるものではないし、かといって誰も責任を負わず問われない社会は「堕落」です。その責任を果たすべきは原発事業を進めてきた国と事業者である電力会社です。そうでなければこの社会は、堕落し続け成り立たないと思います。
他方、原発立地地域の人たちは、「原発補助金」を代償に「ふるさと、生業」を失う責めを引き受けざるをえません。故郷を追われ、賠償を巡って、福島県民からも陰口を言われ、いまだ自らの未来を描くこともできないでいます。
私たちは事故が起きて初めて、事故に直面して初めて、被害を蒙りつつ、「引き受けるべき責任」というものを自覚します。残念ながら、原発立地地域の多くの人々にとって、事故を「予知」することは困難であり、当事者になって初めてその辛酸をなめさせられます。今後も日本が原発に依存するのであれば、国、県、市町村、事業者、裁判所、そして「大人」たちにその責めを引き受ける覚悟があるのかと問いたいのです。
全村避難を余儀なくされた飯舘村の女子高校生が、村民集会で「私が子どもを産んで、その子どもに何かあったときに保障してくれるんですか」と東電の副社長に迫りました。答えはありませんでした。
原発事故の起きた年の8月に私は飯舘村の中学生とドイツに行きました。彼らは原発の是非について一切語ろうとしませんでした。現地のフライブルクで原発反対のデモがありました。このデモへの参加を巡って、飯舘村教育委員会からは、色よい返事がありませんでした。私は、自由参加にしました。引率の先生方は参加しませんでした。でも、子どもたちは、こもごもの出で立ちでパレードに参加しました。彼らは、「背負わされた覚悟」を引き受けようとしたのだと思います。
原発事故で被害者にさせられた福島の私たちの責任とは何か。あるいは、原発事故後に日本に生きる大人たちの責任とは何か。
原発事故の法的責任を明確にさせ、被害の救済をきちんとさせること、そして次の世代に私たちの責任を転嫁せず、原発の再稼働を許さず原発ゼロにすること、私はそのために全力を尽くすつもりでいますし、そうした想いからこの裁判の原告となりました。
裁判所におかれましては、福島の農民の姿をしっかりと見ていただきたいと心から願っています。ワンモアフクシマの地にならないために。