本日佐賀地裁で開催された原発なくそう!九州玄海訴訟の口頭弁論において、南相馬市から横浜市に避難している元新聞記者の村田弘さんが意見を述べました。

1 はじめに
村田弘と申します。昭和17年12月、神奈川県生まれの72歳です。敗戦間近の昭和20年、父母の故郷である現在の南相馬市に疎開し、高校卒業まで暮らしました。新聞社で働き、定年退職後の平成15年、南相馬市小高区にある妻の実家に移住しました。二千坪余りの果樹園跡を開墾、農作業をしておりましたが、福島第一原発事故の避難指示により横浜市に避難しました。現在は、妻とネコ、娘夫婦と横浜市内で借家暮らしをしています。平成25年9月、神奈川県内の避難者が横浜地方裁判所に提訴した「福島原発かながわ訴訟」原告団の団長を務めています。

2 原発事故時の状況
地震発生時、私は、町はずれにあるスーパーの駐車場にいました。スーパー入り口の鉄柱につかまって、激しく、長く続く揺れが収まるのを待ちました。店や蔵の多くが倒れ、道路からは水が吹きあげていました。1.5㎞ほど離れた山際の自宅に戻ると、畑の真ん中で妻がネコを抱いて震えていました。
約40分後には津波が襲い、南相馬市でも1000人を超える犠牲者が出ました。
12日午後4時前、津波に流された母親の実家を見舞って自宅に帰ると、隣の奥さんが「原発、爆発したってよ~」と駆け込んで来て、初めて原発が深刻な状況に陥っていることに気が付きました。午後6時半ごろ、テレビに「20㎞圏内に避難指示」のテロップが流れました。私の家は原発から北西に約16㎞です。「直ちに影響はありません」という枝野官房長官の会見があり、市や町からも指示はありませんでしたので、その夜は家で津波のニュースを見ていました。
翌朝、妻が「外はシーンとしている。誰もいないみたいよ」と言うので、町に出てみました。人影はなく、役場に残っていた若い人が、「みんな昨夜避難した。パニックだったよ」と呆れ顔でした。家に戻って毛布2、3枚と缶詰5、6個などを車に積んで、9㎞ほど北にある中学校の体育館に行ったのが長い避難生活の始まりでした。

3 避難、錯乱の日々
中学校には千数百人が避難していました。毛布1枚ほどのスペースを譲ってもらい、震えながら夜を過ごしました。電話も通じず、車のラジオが唯一の情報源でした。15日深夜、初めてつながった携帯電話をとると、「逃げろ!逃げるんだ!」という声が飛び込んできました。大阪に住む元会社の先輩でした。原発の相次ぐ爆発、高濃度の放射能の放出、事態は深刻の度合いを深めていたのです。
16日夜10時ごろ、避難所に駐在していた市の職員がハンドマイクで、「ここは明朝で閉鎖する」と告げました。①集団で新潟に避難する②自力で避難する③市の次の対策を待つ、のどれかを明朝6時までに選択しなさい、というものでした。
私と妻は、神奈川県にいる子どもたちのところへ避難することにし、一緒にいた弟は病気だったため、医師と一緒に新潟に行くことに決めました。
川崎市の長女宅に着いたのは19日の午前1時半でした。川崎、横浜と3人の子どもたちの家を転々としたあと、3月末に下の娘が住んでいた横浜市の公団住宅5階の空き室に入居、避難生活が始まりました。ネコは下の娘の所に隠してもらいました。
新聞やテレビなどで、大熊町の施設に居た100人のお年寄りが避難途中に亡くなったこと、須賀川の有機農家、飯舘村の102歳のおじいさん、川俣町の58歳の主婦、相馬市の酪農家の相次ぐ自死のことを知りました。南相馬市の93歳のおばあさんが残した「お墓にひなんします。ごめんなさい」という遺書には、声をあげて泣きました。近所の大工さんからは「ばあちゃんが死んだ。火葬場が空かないので、冷蔵庫にペットボトルを入れて凍らせて遺体を冷やしている」との電話。妹からも「義母の遺骨を車に積んだままにしている」と言ってきました。
原発に対する自分の甘い認識、でたらめという以外にない事故対応、相次ぐ被害者の悲惨な姿、足場を失って宙に浮いた日常などがないまぜになって、精神のバランスを失いました。妻の些細な言葉に怒鳴り返し、団地の他人の部屋に鍵を差し込もうとして叱られ、トイレのカバーの交換に30分もかかる。錯乱の日々が続きました。

4 奪われたもの
4年余りの時が流れました。朝起きて歯を磨き、顔を洗う。新聞を読む。卵と漬物でご飯をいただく。ようやく、事故前に近い「当たり前の生活パターン」が戻ってきました。
春と秋には自宅に帰っています。隣町に宿をとり、庭に除草剤を撒き、家の中の除湿剤を取り替え、防虫剤を炊いて帰ってきます。50個もの穴を掘って植えたモモやリンゴ、サクランボ、クリ、ブルーベリーなどは、ほとんどが枯れています。クワ1本で耕した野菜畑は、雑草に覆われています。庭師さんが手塩にかけてくれた庭の松は、伸び放題で、松ぼっくりの山です。
4年前、家の中で1~2μSv、裏庭の雨樋付近で18μSvもあった放射線は、現在それぞれ0.8、3~4μSv(いずれも毎時)程度と低くはなっていますが、いぜん放射線管理区域並みです。横浜に戻ると、2~3日はぐったりしてしまいます。
小高区は20㎞圏内で、今は避難指示解除準備区域。来春には避難指示を解除するということで、除染のダンプカーが走り、そこここに汚染土や放射性廃棄物を入れたフレコンバックの黒い袋が山積みになっています。昨年から役場や郵便局、銀行は開いていますが、町中に人影はありません。
20㎞圏外の南相馬市中心部では、一見、事故前と変わらない生活が営まれ、伝統の「相馬野馬追」も復活し、マラソン大会なども開かれています。残った人たちの間では、放射能や120人を超えた子どもの甲状腺がんの話はタブーです。
地元に残る妹には、「避難していればいいんだから、いいね」と言われます。南相馬市の避難所から仮設校舎に通っている小高区の中学生は、「あっ、600万円が歩いてくる」と指差され、黙って家に帰ったと聞きました。1人月額10万円の賠償を5年分もらっている、という意味です。仮設住宅に住む避難指示区域の人たちは、スーパーの買い物にも傍目をはばかるといいます。賠償をもらって良い物を買っていると見られるから、ということです。一方的な線引きによる賠償の有無、多寡が人々の心を切り裂いているのです。

5 終わりに
現在、神奈川県に避難している71世帯、174人で、国と東京電力に対し、損害賠償を求める訴訟を起こし、「暮らしを返せ ふるさとを返せ」と訴え続けています。
加害者である国と東電は、この未曽有の災害を引き起こした責任を認めず、賠償にも誠意をもって対応しようという姿勢を見せていません。そればかりか、国はあと1年半余後の平成28年度で年間空間線量50mSv以下の地域の避難指示を解除し、避難指示区域外からの避難者に対する住宅無償提供を打ち切る、としています。
被害の全容も、責任の所在も明らかにせず、事故収束の道筋さえ見えない中で、被害者に帰還か流浪かの選択を迫るものです。私は、被害者を切り捨て、事故総体を福島の石棺に封じ込めようとする「棄民宣言」と受け止めています。
正直申し上げれば、私たちの訴訟は「悲しい闘い」です。起きてしまった被害を認めさせ、最低限の償いを求めるものだからです。失われたものは戻ってきません。原発事故という人類史上最悪の核災害は、数十年、数百年から十万年の単位で、重くのしかかってきます。
それに比べ、この法廷で展開されているのは、「希望に満ちた闘い」だと思います。冷静に、事の本質を見極めれば、私たちが味わっているような回復不能な損害を回避し、人間が人間らしく生きられる環境が保障される道を選べるからです。
福島原発災害という、底知れない被害の実態に想いを致し、賢明な結論に到達されることを心から願い、私の陳述と致します。