国立療養所菊池恵楓園に来ています。

18年前ここを訪問しハンセン病元患者さん(回復者)からお話を伺ったことが、その後の僕の弁護士人生を決定づけました。
ハンセン病は感染力が非常に弱く日常の生活の中で感染することはありません。しかも、1943年には特効薬が開発され治る病気になりました。
しかし、1947年に第2次無らい県運動が始まり患者狩りが激化、1948年には優生保護法の制定により、ハンセン病患者の断種・堕胎が合法化され、国や自治体は、ハンセン病隔離政策を強めて行きました。
今回、僕が注目するのは1954年に起こった龍田寮事件です。
ハンセン病患者の子どもが入所する龍田寮の子ども4名が黒髪小学校に通おうとしたことに対して、同小学校PTAが反対運動を展開しました。
龍田寮の子どもが黒髪小学校に向かうと、校門に「らいびょうのこどもと一しょうにべんきょうせぬように」と大書された張り紙が掲げられ、龍田寮の子ども達を学校に入れまいとするPTAの姿がありました。
その結果、龍田寮の子ども達は黒髪小学校に通うことができませんでした。
龍田寮の子ども達は医師の診断を受け感染の危険はないとの判断が得ましたが、PTAの通学拒否運動はさらに激化しました。町内会による龍田寮廃止運動や、通学陳情の妨害などエスカレート。最終的には龍田寮は解散に追い込まれ、そこの児童達は各地の養護施設に引き取られました。こうやってPTAや町内会が中心となって子ども達を地域から排除しました。
本来、子どもの教育を受ける権利を保障・充実させるのがPTAの役割なのに、黒髪小PTAは逆の対応に出ました。
これは過去のことでしょうか。仕方なかったことでしょうか。
僕には、過去の話だと流してしまうことはできません。仕方なかったと済ますべきことではないと思っています。
当時、すでにハンセン病は感染力が弱く、治る病気であることは分かっていました。そして医師の診断によってもそれは明らかでした。
なのに、このPTAは事実を知ろうとしない、学ぼうとしなかった。自分達の中にある意識が差別と偏見によるものだとは疑いもせず、正義面して地域をあげて幼い子どもをいじめ尽くしました。
僕は、これは昔の話ではなく今でも続いていることだと感じています。
国は、1996年にらい予防法を廃止した後も、裁判でハンセン病隔離政策が間違っていたとは認めず、2001年に敗訴が確定するまで徹底的に争い続けました。
今、国や地方自治体は、ハンセン病差別をやめようと言っています。これを目にして、国が人権を守ってくれるんだとかなりの方が勘違いしています。人権問題ってのは、僕らがハンセン病元患者さんを差別することや、いじめの問題なんだと。
違います。いつも人権を踏みにじるのは国であり公務員なんです。だから、憲法は、内閣総理大臣以下公務員が私たち市民の人権を侵害しないように憲法尊重擁護義務を課しているのです。同和差別もハンセン病差別もそれを作り出したのは国なんです。
じゃあ国は反省しているのか。しているわけない。国は、今も裁判で、ハンセン病家族が受けてきた差別や苦しさを否定し争っています。旧優生保護法のもとで強行した断種や堕胎について、間違いはなかったと主張し続けています。ハンセン病患者が殺人犯とされ死刑にされた菊池事件の冤罪を晴らそうとしない。
人権を、可哀想な人に対する施しと捉えてもらうことが国にとっては都合が良いんです。人権を、市民の間の差別やいじめの問題に矮小化することが国にとっては都合が良いんです。
ここのところ何度も何度も言っていますが、人権は可哀想な人に対する施しなんかじゃありません。人権は私達自身のものであり、常に国や公務員によって脅かされている脆く壊れやすいものです。間違っても国が人権を守ってくれるなんてお気楽なことを思っちゃいけない。人権意識は常に磨き続けないと、知らずに知らずに、国や善人面した多数派によって侵害されるものです。
黒髪小学校PTAの行った人権侵害は、今でもPTAや町内会などによって繰り返される恐れがあるものであり、私達一人一人が人権とは何かを考え学び続けなければ、あっと言う間に抗えない力によって人権が踏みにじらてしまうと感じています。そして、学ぶことを怠れば、私自身もいつ人権を侵害する側にまわるかもしれません。僕も、あの時代、あの現場にいたら、多くの保護者と一緒に龍田寮の児童を通学させないと運動の先頭に立っていたかもしれません。
だから「後藤は、いつも人権、人権って言う」と揶揄されながらも、真っ直ぐに人権を訴え続けます。