「不登校はわたしたちの宝物」(咲くふぁ福岡・不登校支援オフィスここるーむ主催)に参加しました(一般社団法人福岡おやじたい・大橋法律事務所・ホームランチーム後援、一般財団法人グリーンコープ生協福岡助成)。

棚園正一さん(漫画家「学校に行けない僕と9人の先生」)のお話

小学校1年生の時、学芸会の練習中に担任の先生からビンタをされたことから学校に行けなくなった。分からない時は「分かりません」と言いなさいと言われていたことから、先生に「分かりません」と言うといきなりビンタをされ、なぜ叩かれたのか分からず「分かりません」ともう一度言うとまたビンタをされた。なぜ殴られたのか分からず泣き続け、翌日から学校に行けなくなった。

精神科医、家庭教師、カウンセラーなど専門家のところに行ったり、専門家が家に来るようになった。

母は学校に行かせようと毎日自転車の後ろに乗せて校門まで連れて行った。校門をくぐるのにも時間がかかり、教室の隣の理科室に行くのにはもっと時間がかかった。

叩いた先生は謝りに来たが、会いたくなかった。その先生に憎しみの感情はなかったが、学校に行けなくなったことに申し訳ないという気持ちだった。同級生や先生が優しい態度で接してくれることに対しても、距離を感じてしまい、余計に学校に行けなくなった。

小学校高学年までこういう状況が続いた。

学校の教室は先生の色が支配する場所で、合わない生徒はまったく合わない。

母はずっと苦しんでいた。母とは毎日ケンカばかりしていた。

母は父親を責め、父は平日なのに家族を潮干狩りに連れて行ってくれた。

父は何でもできる人だった。学校に行けとは言わなかった。

学校に行けない息子をもって父が会社で肩身が狭い思いそしているんじゃないかと思っていた。

小学校中学年頃から母が変わった。外に出ていって友人にあったり趣味の時間をもったりするようになった。学校に行かないことを受け入れたのではないかと思う。

中学校1年の頃、父が変わった。母と息子が喧嘩している時に「もう良い」と声を荒げた。学校に行かないことを受け入れた。

小学校6年生のとき、このままじゃどうしようもないと思い勉強をした。でも、家で一人で勉強することは大変。ひとつ分からないことに躓くと止まってしまう。夜中でも親を起こして質問をしていた。それが数日続くと、父が「育て方を間違った」と。そんなことを言われる自分になってしまったことが悲しくて、もっと頑張らないと未来はないと感じた。

中学校で新しい自分としてやり直すと思って、別の学校に行ったが、みんなが制服を来て整列していることに心が折れてしまった。中学校ってのは小学校よりももっと学校なんだと。勉強頑張ったのにテストはできなくて、また学校に行けなくなった。

毎日母親と喧嘩。水銀を飲んだり、ガラスを割ったり。母が大切にしていたコーヒーカップを割ったり。

このままじゃいけないと家庭教師に来てもらっても会うことができない。家庭教師が来るとテーブルの下に逃げ込んだ。ある日、家庭教師が玄関チャイムを鳴らす中、母親も一緒にテーブルの下に逃げるようになった。

ドラゴンボールの絵を描いていた。支援者が「そんなにドラゴンボールが好きなら作者に会いに行ったら良い」と言って、車に乗せて鳥山明先生の家に連れて行った。何度も行く中で鳥山明先生が会ってくれた。

その頃(中学1年)、大人になれない、20歳位で死ぬんじゃないかと思っていた。

鳥山明先生に「学校に行けないで漫画家になれますか」と聞くと、「学校に行かなくても漫画家になれるかも知れないけど、行ったら行ったで学園モノなんか描く時に便利かもね」と言われた。あっそんなもんなんだと気づいた。とても新鮮だった。

それまで色々な人から色々な事を言われたけど、その裏に学校に行くことという色がついているんじゃないかと感じていた。

それから、鳥山明先生に漫画を見せにいくようになった。週に1度くらい会いに行って学校の話はしなくて、プラモデルの話とかしていた。こうやって家と学校以外に行く場所ができた。学校に行けないことの負い目や、人として欠陥品じゃないかと思っていたが、そうじゃなくても良いかもと思えるようになった。

中学校3年生のとき、学校に時々行けるようになった。

2年間アニメの専門学校に行き、17歳で定時制高校に入った。ただ定時制高校は合わなくて大検予備校に行った。色々な理由で学校にいけない人が集まっていた。学校に行けない理由は様々なんだと気づいた。ここで普通の高校生に負けないくらい楽しく過ごせた。

学校に行った、行けなかったということは関係ないんだと気づいた。

その後、大学に行き卒業し、漫画で生活ができるようになった。

今、不登校の経験を話す中で、気付かされることがある。

どんなアドバイスに対しても「でも」「でも」「でも」と届かない。

自分の家族もそうだった。

でも、ずっとそのままではない。その苦しみが落ち着くことがあって、人からのアドバイスに響く時がある。そのときまで変わらずにアドバイスが続けられる存在であることが寄り添うということじゃないか。

その子がずっとやっていることが実は可能性になることも。自分はそれがたまたま絵を描くことだった。当時は、絵が描けて何の役に立つのと言われた。今、「うちの子はyoutubeばっかり見て」「うちの子はゲームばっかり」という悩みを聞くが、それが将来の可能性につながることもあるし、一緒にyouotubeを見ることで関係が変わってくることも。

学校に行くことが大事なのではなく、学校に行かなかったなりの素敵な経験ができれば良いのではないか。

本人が嫌がるのを無理強いはしちゃいけないけど、人との出会いを促すことが、いつかつながることもある。そのことが見守り続けるということではないか。

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