12月4日、福岡地裁において開かれた安保違憲訴訟自衛隊出動差止事件において、名和田茂生弁護士が意見陳述を行いました。
一部抜粋して紹介します。
本件において,原告らは新安保法制法の「成立」及び施行によって受けた平和生存権,人格権,憲法改正・決定権の侵害を訴えている。これに対し,被告は,「国賠法上保護された権利ないし法的利益とは認められない」,「原告らが人格権の内容として述べるところは,結局のところ,我が国が戦争やテロ行為の当事者になれば,国民が何らかの犠牲を強いられたり危険にさらされるのではないかといった漠然とした不安感を抱いたという域を超えるものではない」などと主張する。しかし,原告らの被害は,けっして,被告のいうような「漠然とした不安感を抱いたという域を超えないもの」などではない。新安保法制法の制定は,多くの市民・国民の権利・利益を侵害し,具体的に大きな被害を与えた。多くの市民・国民が,現行憲法のもとで少なくとも戦争とは無縁に平和に生きることを保証されてきた日常は,新安保法制法により一挙に覆された。そのことにより,原告らは,平和的生存権,人格権,憲法改正・決定権の侵害を受け,現実に苦痛にさらされ,それまでとは異なる人生を送らざるを得ないことになった。原告らの受けた被害は,これらの被侵害利益のそれぞれの一つのみではなく,複合的な被害である。平和的生存権の侵害は,人格権の侵害を必然的に伴っている。しかも,その侵害は,原告らの憲法改正・決定権の侵害によってもたらされている。原告らには様々な人が含まれている。年代も経験もさまざまである。そのさまざまな人々が深刻な危険にさらされ,苦痛を受けている。
(1)原告Aさんは述べます。
平和に対する思いの原点は,戦死した父のことだ。
炭鉱で働いていた父は,母と結婚して1年半経った頃,私が生後6か月の時に,赤紙一枚で召集され,インパール作戦で「戦死」した。
夫を失った母は,戦後の苦難を生き抜いた。農家の手伝い,縫い物の手内職,行商などをして,家族を支えた。
高校生の頃,母に「自分の夫が戦争に行かされるようになる前に何で反対して止めなかったのか」と問うたことがある。母は,「そげんこと言ったちゃ・・・何時の間にかそうなってしまった・・」と答えに詰まっていた。今思えば,自分で考える力を育てる機会さえ十分には保障されていなかった,あの時代を生きざるを得なかった母(女)にそれを問うのは酷なこと・・と言わざるを得ない。そして,母にそれを問うたことを背負ってAさんは生きてきた。
母は,慰霊団に応募して一度ミャンマーを訪れた。「お父さんはミャンマーの何処かで生きているかも」と言ったことのある母は,現地の士をこっそり持ち帰って納骨堂に納めていた。この父(夫)への想いは,娘にさえ想像を超えるものだった。結婚して 1年半で夫を「戦場」に奪われ「戦争未亡人」と言われて生きざるを得ない人生は,誰にも二度と繰り返させてはならないと切に思う。
そして,父も,戦争さえなければ30歳で人生を閉じることもなく,まして,他国を侵略した加害者になることもなく,母や私と共に自分の手で自分の人生を送ることができたはずだ。
同じような思いを抱く人は,他にも多くいる。
このような父や母の無念な思いと苦しみが,日本国憲法を生み,それを70年堅持させてきた。「日本国憲法は私にとっては,父と母が命を懸けて贈ってくれた大事な宝物だ。」と,貴田典子さんは訴える。そして,母に「何故止めなかったのか」と言った高校生の自分が,憲法とともに生きる自身の原点だと語っている。
(2)原告Bさんは述べます。
父は,1933年(昭和8年)に福岡24連隊に入隊した。4年後の1937年(昭和12年)4月,26歳で母と結婚した。母は1917年(大正6年)生まれで結婚当時は20歳の初々しい花嫁だった。そして父は結婚間もない1937年(昭和12年)9月には24連隊機関銃隊に編入され以後大陸を転戦していた。そして,1939年(昭和14年)12月,左足首関節に銃創を受け,翌年2月に帰還し,小倉や福岡の陸軍病院に入院して約1年間の治療リハビリ生活を送り,1941年(昭和16年)2月に退院帰郷することになった。
Bさんは新安保法制により精神的苦痛を受ける根拠として,父のことを語る。
高校生くらいになると父の兵隊現役時代に大陸のほうで何があったのかということもうすうす理解し始めていた。なぜ父は私たちに戦争を語らないのか,大陸で何があったのか。
その後,日中戦争にかかわる双方からの調査研究が進み,加害者側日本人にも皇軍の,非人道的な作戦の実態が具体的に知られるようになった。父の大陸出征は南京大虐殺とぴったり重なる。父が私や姉弟に,そして多分母にも一切戦争の話をしなかった理由がようやくわかった。言葉にならない殺戮の現場に間違いなく父がいたのだ。当事者だったのだ。
のちにこのことを確認するため,残酷な質問を軽い気持ちでBさんは父に発するのだが,父は無言だった。苦虫を噛み潰すような,なんともいえない顔をしていたのが印象に残っている。Bさんは「しまった」と思ったが,もう手遅れだった。Bさんはこのような軽薄な質問をしたことを悔いた。父が戦争を語らなかった理由と同じように,Bさんにとって重い重い罪として心の中に今も残っている。
Bさんは,父の心の中の深い闇に,軽はずみにも手を突っ込んでしまった。いまもその残酷な質問をしたことを後悔している。取り返しのつかないことをしてしまったのだ。その償いとしても戦争法である安保法制に反対している,と述べるのである。
Bさんは,父への質問を幾度となく自分の中で繰り返し、その意味を考えてきたのであろう。様々な感情があふれ、幾度となく父を抱きしめ、父のすべてを引き受ける決意で憲法とともに生きてきたのだ。
(3)最年少志願兵だったCさんは2017年7月12日,この法廷で述べました。
1944年2月に15歳になり,4月に兵庫県の陸軍航空通信学校加古川教育隊に入隊した。1945年5月30日17時過ぎに突然通信が入ってきた。暗号の数字ではなく和文で「コレヨリツウシンキハカイス ブウンチヨウキウヲイノル(これより通信機破壊す 武運長久を祈る)」そして「・・・-・」だった。沖縄に行った戦友たちが決死の突撃をすると思い「わーっ」と大声で泣きだした。寄ってきたトーチカの中の兵隊に電文を見せるとシーンとなった。歴史には「もし」や「たら,れば」は無いと言われる。しかしどんな選び方をされたか分からないが「もし台湾ではなく沖縄だったらこれを書く今の私は存在しない」という思いはいつまでも消えない。家庭では慈しむ夫,やさしい親,愛しい息子,家族思いの兄弟だった人々が上官の命令(軍人勅諭には「上官の命を承ること実は直ちに朕『天皇』が命を承る義なりと心得よ」とあった)で人を殺し殺される人間になっていく戦争は絶対に許せない。原告Cさんの非戦平和運動の原点だ。
(4)原告Dさんは述べます。
原告Dさんは5歳の時に長崎で被爆した。その苦しみを,二度と繰り返させてはならないと思い,被爆体験の「語り部」をはじめ,今日まで平和活動に取り組んできた。
支えてくれたのは,憲法九条だ。戦争を永久に放棄すると定めた憲法九条は,被爆者を含む多くの戦争の犠牲者のうえにある。被爆の悲惨さを語り,戦争のない社会を目指して活動することに,九条は勇気と自信を与えてくれている。
だから,多くの反対の声をふみにじり,安保法制が成立したことに,強い衝撃を受けた。
こんなにも簡単に,憲法が壊されていいわけはない,安保法制のもとでは,Dさん自身が,そして語りかけてきた子ども達が,再び戦争の惨禍を,経験することになるかもしれないと思うと,怒りと恐怖を感じる。
(5)原告Eさんは述べます。
奉職していた西南学院は2016年創立100周年を迎え,「西南学院創立百周年に当たっての平和宣言-西南学院の戦争責任・戦後責任の告白を踏まえて-」を発表した。これは当時西南学院宗教局長という要職にあった私が草案を書き,学内の教職員との丁寧な対話の上に加筆・訂正などを行い民主的手続きによって完成した。
このような戦争協力の姿勢を悔い改め,二度と戦争に加担しない,二度と学生たちを戦場に送らないという決意を表明したものが,「西南学院創立百周年に当たっての平和宣言」だ。また,2015年9月には「安全保障関連法案の廃止を求める西南学院有志の会」が教員を中心にして132名(原告Eさんも署名者の一人だ),1団体によって立ち上げられたのも,二度と学生たちを戦争に送りたくないという想いからだった。
西南学院大学の卒業生で自衛隊に就職する学生はそう多くはないだろう。しかし,このような極めて不備な法制で若者たちを戦場に送り出すことは,かつての戦時下の過ちを繰り返すことであり,西南学院のせっかくの戦争責任告白に矛盾する行為であり,「西南学院創立百周年に当たっての平和宣言」を発表した矢先であり,教育者として耐えがたい苦痛だ。ここで黙っていたら,教育者として自己矛盾を抱え,思想,教育の一貫性を問われ,はなはだ不名誉なことになる。このような形で市民の名誉を侵害する,憲法違反の安保法制による自衛官派遣を即座に差し止めるべきだ。
そして,Eさんは最後に言いたいこととして以下述べている。
憲法第12条は,「この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない」と言う。権力は必ずと言ってよいほど腐敗し,民主主義でさえ,単なる多数決原理に還元され,衆愚政治に陥る。今日,もう一度,「日本国民は,国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的(つまり,国際的平和主義)達成する」道に立ち帰るべきだ。裁判官諸氏がこのような市民の切実な痛みの声に耳を傾け,政治権力を「忖度」するのではなく,憲法そのものに根差し,基本的人権を擁護する「不断の努力」に与して下さることを心より願う。
(6)長年の間裁判所速記官として勤務した原告Fさんは述べます。
2人の子と3人の孫(現在小学5年生,高校2年生,大学4年生のいずれも男性)がいる。神が授けてくれた,子や孫たちを戦争で殺させては絶対ならない。また,この子や孫たちに,近代兵器を持たせて,他国の人を殺させに行くことは,想像するのも悲しく,体を張ってでも止めさせる。孫らが人間でなくなるからだ。子や孫が生まれたときの喜びが奪われると思うと,このまま新安保法制がまかり通ることを阻止しなければ,孫らが人間でなくなることを容認することになり,いても立ってもおられないような精神的苦痛を禁じ得ない。そして,いったん自衛隊に安保法制に基づく出動命令が出されれば,戦前に回帰し,歯止めが利かなくなり,取り返しのつかない過ちを繰り返すことになる。絶対止めさせなければならない。
速記官時代,調停委員時代にあまたの裁判官と仕事上知り合い,付き合いをしてきたが,その裁判官や,現に審理をしている裁判官が集団的自衛権を憲法が容認していると解釈するとはとても思えない。尊敬に値する裁判官が,憲法と良心に従うことなく,安倍内閣に迎合して,裁判官としての矜持をかなぐり捨てて,生きていく姿は想像することだにできない。しかし,今は,「忖度」政治がはびこっている。裁判所さえも安倍内閣に首を垂れるのでは,三権分立は建前だけになるではないか。自分がこれまで一生懸命働いてきた裁判所がそういう情けない姿を見せるということには耐えられない。Fさんは,「人生をかけて,訴訟の原告に立ち上がった。」と訴える。
(7)原告Gさんは,若者であり,平和を望むイラストレーターだ。彼は,本件原告らが原告になる契機の一つとなったパンフレット「この道はあってますか」の作者でもある。
Gさんはその陳述書で次のように訴える。
僕の誕生日は,1945年のアジア太平洋戦争で福岡大空襲があった日,6月19日です。ハワイの近くにあるマリアナ基地から飛び立ったB29爆撃機239機は,太平洋を北上して有明海の上を渡り,背振山脈を越えて福岡市内を爆撃。中央区や博多区など市内の家屋1/3が被害にあい,1000人以上が殺されました。その中の1機だけが,現在の糸島市の雷山香力地区周辺にも爆弾を落とします。この地区に建っていた雷山小学校も焼夷弾によって焼かれ,この小さな雷山村に住む8人の住民が殺されました。これを雷山空襲と言います。僕が通っていた雷山小学校では毎年6月19日に平和授業が行われ,空襲跡のフィールドワークがあったり,語り部の方から悲惨な当時のエピソードを聞かされました。空襲によって脚が千切れかけている人が,薄い皮一枚でぶらさがっているのを知人に頼んで包丁で切ってもらったとか。そういうエピソードを,本来は楽しいはずである誕生日の日に毎年6歳から11歳まで毎年聞かされるわけです。そうやって戦争について,僕は眼を背けることが出来ない人生を選ばされた気がします
僕はイラストレーターで,絵やデザインの仕事をしています。6月19日という誕生日のこともあって,戦争や平和に関する仕事も思い入れがあってやってきました。
キリスト教会のある司教が声をあげたエピソードを最後に紹介したいと思います。グラフ・フォン・ガーレン司教は,教会の公開説教の場でナチスの政策を批判するスピーチをしました。このスピーチはたくさんの人の心をうち,コピー機なんていう機械がなかった当時,手書きで何十枚も原稿が書き写され,それがまた書き写されて…という形で急速にドイツ中の人々に知られるようになりました。もちろんグラフは逮捕されますが,そのスピーチからわずか20日後,ナチスは障害者虐殺計画の中止を決めました。市民が勇気をもって声をあげること。その声は,やがて大きな波紋となって国の政策さえも動かす事も出来るのです。グラフの勇気も大切だけれど…スピーチを書き写した,市民のひとりひとりがいなければ広がる事はなかったはずです。決して歴史に残るような有名な人ではないけれど,時として歴史が大きく変わっていくのは,こんな名もなき市民が勇気を出した瞬間,その時に歴史が変わり出すものではないでしょうか。僕は,この名もなき市民の列に加わりたいと願っています。裁判長も司法の道から,この勇気ある歴史の一歩に加わっていただけないでしょうか?
(8)原告Hさんは,3歳の息子を持つ会社員だ。夫も会社員として働いている。息子は現在,保育園に通っている。
福島第一原発事故が起こるまでは特にニュースなどにも関心がなく,流行りのファッションに興味がある普通の女の子だった。
福島第一原発のニュースに接し,何かがおかしいと感じた。
そこで,インターネットなどで情報を集めていると,玄海原発の廃炉を求めている市民グループが玄海原発から風船を飛ばすことで,玄海原発に事故が起きた際の放射性物質拡散経路の実証実験を行っているYou Tubeを見つけた。
その実験によれば,風船は遠く奈良県まで飛んでいき,玄海原発に事故が起きれば,福岡県はもちろん,西日本一帯が放射能に汚染される危険性があるとのことだった。
ニュースなどでは20キロ圏内,30キロ圏内といった比較的狭い範囲にしか放射性物質が拡散しないかのような報道がされていたので,この実証実験の結果との違いに驚き,それがどういうことなのか知りたくなり,玄海原発の差止めに取り組んでいる弁護士の会議に飛び込みで参加した。
これを契機に,友達にも伝えたいと思い,憲法の学習会をしようと考え,企画して,これまで続けてきた。
2016年5月に,息子を出産してからは,子育てに追われる日々で,頻繁に学習会に参加したり,街頭でアピールしたりする機会は減った。
それでも,母親として,絶対にこの子を戦場に送りたくない,この子に殺し合いをさせたくない,この子が殺されるのはもちろん,この子が人を殺すのも絶対に嫌だとの思いから,安保法制に反対する気持ち,そして憲法改正を阻止しなければという気持ちはさらに強くなっていった。
母親として,この子に残すべきは,憲法9条のもと戦争をしない平和な国であり,Hさんたちの世代が平和を謳歌できたように,この子にも平和を引き継いでいきたいと思っている。
そのような中,福岡でも安保違憲訴訟が起こると聞き,原告になった。
大切な夫と息子の命を奪わないで下さい,そして世界中の誰もが平和に暮らせる世の中にして下さい,とHさんは訴える。
【まとめ】
(1)福岡県瀬高町(現在はみやま市)出身の自民党元幹事長である古賀誠氏は「憲法九条は世界遺産」という著書を,かもがわ出版より,2019年9月に出版されている。私は,原告の陳述書等をとりまとめる作業をするなかでこの本を読み,大変感銘を受けました。
(2)古賀氏は,「父親は,姉と私を残して,私が二歳の時に二度目の出征を致しました。・・・そして二度と帰らぬ人となりました。」「悲しいことに『お父さん』と呼んだことのない人生であります。」「父が出征したあと、母親の命がけの人生が始まりました。」「母親は私が物心ついた時から行商にでていました。」「多くの人たちが母親と同じように夫を亡くしていたし、子どもを亡くしたたくさんの両親がいた。」「だから再び戦争を繰り返してはならないと思いました。」「そのために政治を志したのです。きれいごとを言うようだけれど、これが率直な気持ちだったと思います。」と述べ,「憲法9条の問題は,私のすべて」と語るのです。
また,「憲法九条は世界遺産」という意味について,「戦争の反省と平和の決意を込めた憲法九条だ」と古賀氏は言います。「さきの大戦で犠牲になった多くの人の血と汗と涙が憲法九条には込められている」「大東亜戦争を引き起こし、世界の国々に大きな迷惑をかけ、いい知れない損害を世界の国々にも与えた日本の国が、そのことに対するお詫びをしているという意味あいをも、平和憲法というものが持っている」と言います。
(3)私は,戦争体験者及びその家族である本件原告らの陳述書を思いました。「日本国憲法は、私たちにとっては,父と母が命を懸けて贈ってくれた宝物だ」と言います。憲法を「大事な宝物」とする思いは全ての原告に共通する思いであることが,本件原告らの陳述書等が示しています。それゆえ,全ての原告が平和を望む市民,国民なのです。
そして,多くの原告が,父母はもちろんのこと,年若い青年をはじめ戦争の犠牲になった幾多の人々がいること,また,我が国が加害者となった世界の人々の尊い犠牲の上にも日本国憲法が生まれたことを知っているのです。それだからこそ,原告らは尊い宝物を守り,宝物を光り輝かせていく責任を自覚し,崇高な決意のもとに憲法とともに生きてきました。原告らにとって日本国憲法は生きてきた証です。私には、古賀誠氏が述べた「憲法九条は私のすべて」の叫びが本件原告らからも聞こえてきました。
(4)さらに,古賀氏は言います。「一番腹立たしいといいますか、憲法にも違反するのではないかと思われるのは、集団的自衛権の解釈変更の問題です。集団的自衛権の行使は憲法違反だ、日本は専守防衛でやっていくのだというのが、戦後の内閣がずっと維持し、国民も支持してきたことなのに、閣議だけでこの見直しを決めてしまった。本末転倒というか、国民の皆さん方に対して、取りかえしのつかない禍根を残した決め方だったと私は思っています。」
安保法制法の違憲性を古賀氏は明白にしたのでした。
本件原告らの陳述書等はどうでしょうか。本件原告らは被害について述べたのですが,安保法制法の一見して明白な違憲性を,自らの陳述で明らかにしているではありませんか。
(5)私は,本件原告らの陳述書等を読み,これまでの憲法とともに歩んできた原告ら人生において,本件原告らが父や母と,祖父母や親族と,亡くなった戦友と,幾多の戦争犠牲者と,そして,我が国が加害者となったアジアをはじめ世界の人々と,教育者としての教え子たちと,平和に生きることの意味を教えてくれた教師と,ともにたたかってきた労働組合の仲間たちと,原告薄陽子さんは恩師と,そして生きてきた時代と,何を語り合ってきたかを繰り返し思いました。その都度,私の心は原告らを含む様々な人々の感情でいっぱいになりました。
(6)被告国に言います。本件原告らの訴えに対し,「権利ないし法的利益とは認められない」「漠然とした不安感」ということが許されるのですか。そのような考え方,国民,個人に対する見方は,権力者,支配者としてのものであり,戦前において総動員体制の下で国民の人生をもてあそんだ思想と共通するものがあるではありませんか。
(7)私が,本日,意見陳述として紹介できた原告の訴えはごく一部です。どうか裁判所におかれましては本件原告らの訴えに心を傾け,その訴えを聞いて下さい。私は,原告らの訴えが,裁判官の良心に届くことを切に願います。
今後の予定
1月29日(水)14時 福岡地裁101号法廷 安保違憲訴訟差止国賠訴訟
3月18日(水)15時30分 福岡地裁101号法廷 安保違憲訴訟差止国賠訴訟
3月24日(火)14時 福岡地裁101号法廷 安保違憲訴訟国賠訴訟
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